草加市神明町 東福寺の石仏 その1
ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら今日は神明町の大寺、東福寺の石仏です。東福寺 草加市神明1-3ー43[地図]県道49号線の神明町交差点から西に入り次の信号交差点を左折すると旧日光街道になり古い街並みが見られる。左折してすぐ、道路右側に東福寺の入口があり、ずっと先に山門と本堂の大きな屋根が見えた。入口両脇に石塔が立っている。入口右 成田山道標 安政2(1855)駒型の石塔の正面を彫りくぼめた中「成田山」右側面に造立年月日。下部の一部が剥落。左側面 八条 三拾丁、流山 壹里七丁、成田 十五里半。地名のほうはしっかり見えるが、距離の部分は銘が薄くあまり自信はない。入口左 新四国八十八ヶ所標石 大正10(1921)正面「新四国八十八ヶ所第・・」下部は剥落。裏面に造立年月日。長い参道の先に江戸時代後期に建てられたという山門、市指定有形文化財になっている。山門をくぐると正面に大きな本堂。ここを左に曲がってすぐ、奥の墓地に向かう道の左側に石塔が並んでいた。石碑や墓石などの中に講中によるものもいくつか見られる。左から3番目 光明真言供養塔 天保9(1838)三段の四角い台の上、角柱型の石塔の正面 梵字「ア」の下に「光明真言供養塔」両脇に天下泰平・國土安穏。塔の左側面は無銘。右側面に造立年月日が刻まれていた。上の台の正面に世話人とあり、各村から合わせて16名の名前。右側面には奥に宿内村々講中、続いて三丁目、四丁目、六丁目から10名の名前が、さらに蒲生村から2名の名前が刻まれている。台の左側面には施主一名の名前があり、一番奥に石工 青木宗義。この草加石工の名前はこれまでもいろいろなところで見かけた。その隣 六十六部供養塔 安永4(1775)角柱型の石塔の正面 阿弥陀三尊種子の下「六十六部供養佛」両脇に天下泰平・國家安全。右下に廻國沙門浄隣、左下に造立年月日。塔の両側面には多くの戒名が刻まれている。丸彫りの地蔵菩薩塔をはさんで、その奥に庚申塔 享保10(1725)唐破風笠付き角柱型の石塔の正面を深く彫りくぼめて、外に日月雲、中に青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。下の四角い台の正面に「再建講中」とあり、その下に小さな字で20人ほどの名前が刻まれていた。三眼吊り目の青面金剛、頭上にとぐろを巻いた蛇を乗せ、六本の腕の手首にも蛇が巻き付く。足元に宇宙人のような異相の邪鬼。正面向きの上半身型で、顔を大きく傾ける。その下に正面向きのスタンダードな三猿。二鶏は見当たらない。塔の右側面に造立年月日。左側面には両像再建とあり、その下に弘化4年(1847)の紀年銘が刻まれていた。この「両像」は青面金剛と邪鬼?いずれにしても幕末の再建塔ということになる。さらに南へ進むと、左側に歴代住職の墓地があり、卵塔、五輪塔など多くの墓石が並んでいた。墓地の北西の角 不動明王立像 延宝2(1674)舟形光背に剣と羂索を持った不動明王を浮き彫り。光背には火焔を線刻。江戸時代初期らしく素朴だが力強い。背面に銘が刻まれているが薄く読みにくい。中央、梵字「カーン」の下「爲春全□□□阿闍梨菩提也」両脇に紀年銘、こちらは命日だろうか。墓所の正面左 大日如来坐像。金剛界大日如来特有の智拳印を結ぶ。丸い敷茄子の正面に□□阿闍梨と銘が見えるが紀年銘などは確認できなかった。墓地の南東の角 聖観音菩薩立像 延宝3(1675)細長いフォルムの舟形光背に右手与願印、左手に蓮華を持つ聖観音像を浮き彫り。塔の上のほうに断裂跡が見える。光背右脇「奉造立正観音逆修」追善供養塔ではなく逆修供養塔ということか?左脇に紀年銘。その下、両脇に八名の名前があり、施主等 敬白と刻まれていた。歴代住職の墓所の向い側に六地蔵の小堂が立っている。後ろは小さな池になっていた。小堂の中、正面中央にやや大きな舟形光背型の地蔵菩薩塔。その両脇に六地蔵菩薩塔。堂の両脇には小型の地蔵菩薩塔および如意輪観音塔が合わせて4基並んでいた。正面中央 地蔵菩薩立像 元禄6(1693)経年による風化は見られるが大きな欠損はない。光背右脇「奉造立地蔵菩薩結衆二世安樂攸」左脇に造立年月日。六地蔵菩薩塔は光背に戒名などが刻まれていた。右から二基目には文化7(1810)の紀年銘。左端の光背右脇「先祖代々□菩提」左脇に草加六丁目施主とあり、個人名が刻まれていた。