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2008.11.22
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カテゴリ:軍事
一夢庵 怪しい話 第3シリーズ 第337話 「魔弾の射手」

 軍隊における狙撃の重要性というのは、一般論としては、銃が高性能になればなるほど高まっていったようで、大雑把に言えば、普通の兵隊に支給される軍用ライフルの射程距離が200~700m程度だとすると、狙撃手に支給される狙撃用ライフルは1kmを超えるような射程距離で、アウトレンジから一撃必殺という事になっているようです。

 或いは、同じ程度の距離での撃ち合いならば、その命中精度や速射能力の差が普通の歩兵と狙撃手との間には存在し、1対多の闘いが可能なケースが多いとされています ・・・ が、そもそもの狙撃のアドバンテージは相手が気が付かない距離からの一方的な射撃にあるわけですから、普通の軍用ライフルの射程内で撃ち合うというのは本末転倒ではあります。

 軍隊の狙撃手を扱った映画では、”山猫は眠らない(SNIPER)”シリーズが思い浮かびますが、軍隊に入る前から狩猟で生計を立てていたり狩猟が生活の一部だったという狙撃手は銃が開発された頃から多かったようで、それも、国に関係無く、水鳥の類を撃っていた人から名スナイパーが出る傾向があるようです。

 戦場における嫌らしい狙撃の戦術としては、映画の”フルメタル・ジャケット”の後半にも登場した、わざと致命傷を負わせずに脚などを撃って行動不能にして”囮”とし、それを助けに近よってくれば次々に射殺ないし行動不能にしていくというもので、即死させずに泣き叫ばせる余力を残すこの方法は、足止めの方法としても有効な事が知られています。

 ところで、映画”ランボー”ではあるまいし、たった一人の狙撃兵がいたからといって数十~数百人の敵歩兵と交戦して勝てるわけがないだろうと思う人の方が多いかもしれませんが、実際には、ランボーが霞んでしまうような伝説の狙撃手が ・・・ それこそ現代版の魔弾の射手が実在していました。

 戦場で狙撃をまだしているときから伝説の狙撃手として有名だったのが、フィンランドのシモ・ヘイ(Simo Hayha:1905/12/17~ 2002/04/01)で、第二次世界大戦中にソ連軍を相手に超人的な狙撃をした事で知られています ・・・ 一部ではですが(笑)。

 1925年に軍隊に入隊したとき、幼い頃から狩猟で生活していたこともあってか、既に優秀な狙撃手としての記録を残していたそうですが、1939~1940年のフィンランドとソ連の冬戦争でフィンランド国防陸軍第6中隊に所属し最前線で任務に就いた時に、前人未踏、おそらくは後人未踏の世界記録を樹立しています ・・・ 公式に記録された戦果だけでもですが。

 その軍歴の中でも映画以上の現実となったのが、1940年の”コーラ河の奇跡”と呼ばれた32名のフィンランド軍と4000名のソ連軍が対峙した戦いで、ヘイの獅子奮迅の奮闘もあって、実に100倍以上の敵を追い返す事に成功しています。

 ちなみに、当時のフィンランド軍は、ヘイが使っていた狙撃銃を含めて、旧式のソ連製ライフルを使っていて、ヘイの狙撃銃(モシン・ナガンM28)は最新式というわけでもなければ、(ヘイの希望もあって)スコープも装備されていなかったそうです。

 最終的に冬戦争の戦争開始から負傷するまでのわずか約100日間だけで、ヘイに狙撃されて死亡したソ連軍兵士は505名を数え、KP31サブマシンガンなどを使った戦闘を含めると、ヘイが殺したソ連兵の総数は公式記録でも700名を超えているのですが、実数は1000名を超えていたのではないかという説もあり、まさに一騎当千を地でいったことになります。

 白色の冬季迷彩服を着用していたことから”白い死神”とソ連側は呼ぶようになったのですが、装備に優れたソ連側のスナイパー達にとっては、一方的に甚大な被害を与え続けるヘイを葬ることが最優先課題になっていったであろうことは想像に難くありません。

 結論から書くと、冬戦争の末期の1940年3月6日にヘイはソ連側のスナイパーに狙撃され、顎を打ち抜かれ意識不明に陥る重症を負ってしまうのですが死なずに戦争の終結を病院で向かえています。

 狙撃された時の怪我が原因なのか、祖国を救った英雄を死なせるわけにはいかないと上層部が判断したのかは微妙ですが、その後は戦場に出る事は無く、コラー十字章を受勲、兵長から少尉へと五階級の特進を餞に現役を引退しています。

 装備に劣るヘイが、当時、既にスナイパーはスコープの使用が当たり前になっていた中で、レンズに光が反射する事で自らの位置を悟られるリスクを嫌って、銃身に付いた鉄製の照星と照門のみを頼りに狙撃をして圧勝した事もまた彼が伝説のスナイパーと呼ばれる由縁の一つなのですが、冬戦争から60年近く経過した1998年にフィンランドのTV局に狙撃のコツをインタビューされて”練習すること”と一言だけ答えた事もまた伝説になっています。

 ちなみに、軍に入隊した後の狙撃訓練課程で、150mの距離から1分間に16発の射的に成功し、300m以内だと頭部に弾丸が秘中(いわゆるピンヘッド)していたそうで、まともに正面から銃で撃ち合っても普通の兵隊に勝ち目は無かったようです。

 ヘイを調べていると、同時期に、もう一人の天才スナイパーとして、スロ・コルッカ(Sulo Onni Kolkka, 1904/12/20~1988/08/21)が存在していたという話も出てくるのですが、彼も公式の確認戦果だけで400名以上を射殺したことになっていて、ヘイと並ぶ狙撃の名人で冬戦争の最前線で戦い抜いたということになっています。

 ただ、彼の最終階級が曹長で終わっているのは、ヘイの昇進と比較するといささかか過小評価すぎるのではないか?という指摘があり、その戦績や戦闘におけっる逸話などが後半になるほどヘイのそれと酷似していたりすることなどから、コルッカの戦績は後半になるほど、シモ・ヘイヘの記録を元に公認で捏造されていて、それ故に最終階級は実際の戦績に見合った曹長で止まっているのではないか?という説もあります。

 要するに、ソ連軍との冬戦争において、救国の英雄は一人でも多い方が良かった時期に、ヘイに次ぐ記録を残していたクルッカに白羽の矢が立って、2人目の”白い死神”が多少の水増しを経て捏造されてプロパガンダに使われたのではないか?ということで、一種の戦場都市伝説とでもいったものなのかもしれません。

 このあたり、戦争終結後のソ連軍の報復をクルッカが怖れて、意図的に昇進しなかったとか、フィンランド軍における記録を入隊に遡って抹消したとかいう説もあるのですが、記録を抹消していない狙撃のナンバー1のヘイが21世紀まで生き残っていたわけですから、今ひとつ説得力には欠ける気がします。

 もちろん、当事者が亡くなった今となっては、どこまでが本当で、どこからが嘘なのかは定かではないのですが、シモ・ヘイが故国を守るために自分の力の限り戦い抜いた事だけは確かな話ということになります。

初出:一夢庵 怪しい話 第3シリーズ 第337話:(2008/11/17)





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Last updated  2008.11.22 00:08:22
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