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2010.07.01
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カテゴリ:歴史
一夢庵 怪しい話 第839話 「江戸の花火」

 日本の花火大会の原形が、江戸時代の両国川開きの花火大会としても、さほど異論は無いと思うのですが、ああいった打ち上げ花火の原形はやはり戦場などで合図用に開発されたようで、ある意味で平和利用なわけです(笑)。

 ちなみに、「駿府政事録」によると、慶長18(1613)年に駿府城内で英国人が打ち上げた花火を徳川家康が見物したのが最古の公式記録に残る”花火”とされています。

 もっとも、その十数年前には京都で葡萄牙人や阿蘭陀人が朝廷への御機嫌伺いを兼ねて花火を打ち上げた事があったようですから、打ち上げ花火や花火大会を家康がその頃に目にしていた可能性はありますが、当時の打ち上げ花火は軍事用の狼煙に多少の改良を加えた程度だったようで、花火の色も白と赤の2色だけだったようです。

 いずれにしても、その頃から江戸の街でも花火が造られるようになったようで、後に花火師という職業が成立するほど隆盛するものの、漢文10(1670)年には江戸市中における花火の製造が禁止になっています ・・・ 火事の可能性を考えれば遅すぎた決断のような気もしますが。

 慶安元(1648)年に幕府が隅田川以外での花火の禁止の触れを出しているということは、当然、それ以外の場所でもずいぶんと花火が行われていたということになるのですが、市内で花火をしても良い場所が隅田川の水辺の界隈に限られるようになっていったようです。

 このあたり、両国で川開きに花火の打ち上げが行われるようになるより前から隅田川には夏の適当な時期になると納涼船が出ていまして、納涼船が出るようになると花火舟と呼ばれる花火を売る舟が納涼船の間を漕いで回り、客の注文に応じて花火を船の上(=川の上)で打ち上げる形式で打ち上げ花火などが楽しまれるようになっていたようです。

 ちなみに、両国の川開きは享保年間(1716~1736)に始まったとされているのですが、徳川吉宗の命で、川開きに併せて水神祭を行い、そこで死者の供養と悪病退散の3-824”川施餓鬼”を兼ねて花火を両国橋の両方の岸から打ち上げたのは享保18年(1733)5月28日だったそうで、それ以降、川開きの日に花火を両国橋の近くの川縁で打ち上げる行事が定着したようです。

 正確には、享保17年に全国的な飢饉が発生し江戸の街ではコロリ(コレラ)が大流行して多数の死者が出たことから、吉宗が隅田川で水神祭を行い、その折、両国橋の近くの料理屋が公許を得て、同じ日に川施餓鬼を行い、料理屋に雇われた鍵屋6代目篠原弥兵衛が花火を打ち上げたそうです。

 その後、両国の花火の打ち上げが川開きを告げる合図というか祭のようになり、川開きの花火から8月28日の打ち止めの花火の間の3ヶ月間は、船遊びや船涼みなどを含めて川が庶民の納涼の場として解放されたわけですが、この川開き花火を武士階級も当然楽しむようになり、3-817”上中下屋敷”の回で書いたように、下屋敷や蔵屋敷を川沿いに持つ大名は珍しくありませんでしたから、隅田川沿いに屋敷をもつ大名たちは、同じ頃にお抱えの砲術家などに花火を打ち上げさせる武家花火で楽しんでいたようです。

 江戸時代の涼み船は両国を中心に、三又(中央区日本橋箱崎町の中州だった)~吾妻橋のあたりまでがおおよその範囲だったようですが、逆に言えば、その範囲は納涼船で一杯になって実際にはまともに水面を漕いで移動するには無理があるほどの混雑ぶりだったようです(笑)。

 もちろん、そうなれば、事実上水面を漂っているだけの納涼船の間を縫ってスイカや真桑瓜を売ったり、それこそ流しの芸人などを乗せて、声色や写し絵、新内や義太夫を演じてみせる小舟がちょろちょろ移動して商売をしていたそうで、その手の”うろうろ船”と呼ばれる小舟は舳先に赤い提灯を点しておくのが一つの約束事になっていたそうです。

 当時の両国界隈といえば江戸屈指の盛り場で、小さな芝居小屋はもちろん、寄席や飲食店が並ぶだけに、芸人などの供給も、酒や簡単な食べ物を提供するにも、他の地域より有利だったこともあったのでしょうが、考えてみれば、うろうろ船がうろうろできる範囲が納涼船が川面にたむろしている範囲になったのかもしれません(笑)。

 ちなみに、納涼船といえば屋形船が代名詞のような気がするのですが、屋形船よりも猪牙が、猪牙より日除船(屋根船)が多く、屋形船より安価で直射日光は凌げて花火はよく見える日除船が主力だったようで、屋形船は借り賃が1日5両だったそうですから、やはりよほどのお金持ちでもなければおいそれと貸し切りで使ったりはできなかったようです。

 ところで、何故に、両国橋界隈の料理屋が公許を得てまで自腹で花火を打ち上げたのか?というと、これがどうも最初から新規の客寄せのイベントを目論んでいたようで、前述したような花火舟で花火を打ち上げても川縁の料理屋にとっては客寄せになりませんが、決まった日から川縁の決まった場所で花火が打ち上げられるようになれば話は別で、料理屋の2階などから納涼を兼ねて料理を食べながらそれを楽しむ客が増えたわけです。

 実際、本来は水神祭に併せた川施餓鬼の行事として始まった花火の打ち上げは、何もその日の夜だけとは限らなくなっていったようですし、時代が下がれば下がるほど全国に拡散しながら広まっていったようです ・・・ その頃には川施餓鬼の行事というより観光イベントとして(笑)。

 話を花火大会というか打ち上げ花火に戻すと、打ち上げ花火に関しては、火薬の実用化が早かった中国では宋代(960~1279)の頃から,ヨーロッパでは14世紀後半のフィレンツェで行われたものがそれぞれ洋の東西の始まりと言うのが定説ですが、意外なことに、日本に打ち上げ花火が伝わったのは16世紀の半ば、少なくとも鉄砲が種子島に伝来した後の事とされており、花火大会という規模になると前述したように江戸時代に入って両国の川開きなどで盛んになり、花火も打ち上げ技術も独特の発達をしていったようです。

 ところで、両国の川開きの花火などで、花火の打ち上げに併せて”玉屋~。鍵屋~。”とかけ声が上がるのは、江戸時代の花火の本元として、玉屋と鍵屋の2軒があったからですが、玉屋は将軍・家慶の東照宮参拝出立の前夜に、花火を爆発させて出火して半町ほど焼いてしまったことから家が取り潰されてしまいます。

 玉屋が暖簾分けして以降、両国の川開きの花火は、両国橋を挟んで上流を玉屋、下流を鍵屋が受け持つようになったものの、玉屋が一代で家名断絶となったため、その後は、両国の川開きの花火も打ち止めの花火も実は鍵屋だけがやっています。

 その辺りの経緯を整理しておくと、万治2(1659)年に大和篠原村(現在の奈良県吉野郡)の鍵屋弥兵衛が江戸日本橋横山町で花火の製造を開始し、文化5(1808)年に鍵屋の番頭の清七が暖簾分けして市兵衛と改名の上で両国吉川町で玉屋を開業したものの、天保14(1843)年4月17日(将軍御成前夜)に玉屋が失火して闕所(財産没収)の上で所払いとなり玉屋は誓願寺前(深川海辺大工町という話もある)へ移ることになり、結果的に鍵屋だけが残ることになったわけです。

* 鍵屋は第二次世界大戦期に13代天野太道が花火製造を取りやめた時点で廃業とされるものの、打ち揚げ専業業者として残っているそうです。

  鍵屋や玉屋のような町人花火に対して、武家花火も盛んになっていったのですが、特に、尾張藩、紀州藩、水戸藩の徳川御三家では江戸屋敷でも火薬製造を規制される事が無かったこともあって武家花火が盛んだったようで、御三家花火といえば、隅田川の夏の花火として武家花火の中でも人気があったようですし、いわゆる”伊達”で知られる伊達藩の武家花火は、仙台河岸の花火として見物人が大勢押し掛けていたようです。

 一応、川開きの花火はかなり賑わったようですが、夏の終わりを告げる事になる打ち止めの花火は人気が無く不入りだったそうで、現在の両国の墨田川花火大会も川開きの花火の風習だけが残ったようですが、少なくとも両国の花火の夜を川開きとする風習は、栄枯盛衰を繰り返しながら、昭和36(1961)年までの間は隅田川の夏の風物詩だったようです。

 ちなみに、昭和37(1962)年から廃止とされた表の理由は”交通事情の悪化など”だったようですが、昭和39(1964)年が東京オリンピックで、その準備も兼ねて急ピッチで東京の街が変わっていた時期で、川を巨大な暗渠排水溝の代わりにしたり、川底を使えばそこに私有地を買収する手間がかかりませんから川の上に高速道路を通すような無茶な工事も多く、”ここが日本橋です”と言われないとわからないくらいにぐちゃぐちゃになった日本橋界隈の光景に裏の理由が内包されている気がしないでもありません。

 実際、昭和53(1978)年から場所を以前よりも少し上流に移して花火大会は復活しており、”じゃあ、中断した本当の理由はなんだったんだ?”という気がしないでもないのですが、江戸っ子は小さいことは気にしないようで、夏の納涼イベントとして楽しまれているようです。

 まあ、私的には、あんな人混みの中に納涼に行きたいとは思いません ・・・ で、例によって最後に余計な事を書いておくと、現在のような派手な花火になったのは明治に入って西洋花火の技術や海外からさまざまな原材料の輸入が可能になった後の事ですから、江戸時代を舞台にする時代劇の場合、実はかなり地味な花火にしないと無理があります(笑)。

初出:一夢庵 怪しい話 第3シリーズ 第839話:(2010/06/25)





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Last updated  2010.07.01 00:20:59
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