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2010.11.01
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カテゴリ:歴史
一夢庵 怪しい話 第3シリーズ 第944話 「座頭金」

 座頭といえば座頭市が有名ですが、別に座頭という姓ではなく、江戸時代における座頭とは”目が不自由で、按摩、針、音曲(琵琶、箏を弾じて平家物語などの語り物を語ったりした)などを業として世渡りをしている人”を意味しています。

 ちなみに、映画やTVのような大活躍はもちろんフィクションですが、座頭市そのものは実在の人物で、実際に按摩を業としていたそうです。

 話を戻すと、目が不自由な人が座頭になったこともあって、目が見えているほど稼げる人は珍しかったようで、そのあたりのハンデを考慮して、江戸時代は江戸市内では座頭にだけ高利貸しを営むことを公認していました。

 大雑把に解説すると、商工業や芸能などで”座”と呼ばれた組合組織の一つに”当道座”という盲人の座があり、その座に属していた座頭が多額の金を高利で貸し付けて運用していたことから、江戸では座頭金といえば高利の金を意味していたわけです。

 元来、当道座には、検校(けんぎょう)、別当(べっとう)、勾当(こうとう)、座頭(ざとう)の4官があり、所属していれば幕府の保護も何かと受けられていたのですが、時代が下がると盲人を座頭と呼ぶことが珍しく無くなっていったようですし、盲人でなくても按摩や針を職業にしている人を座頭と呼ぶようになっていったようです。

 逆に言えば、座頭以外の高利貸しを健常者が行っていれば、非公認の高利貸しというだけのことで、現在の闇金融や裏金融のような存在になるわけですが、実際には、小金を貯めている人がしばしば高利貸しをしていたり、金回りの良い寺や武家の中には裏の副業として金貸しをやっている人達がいましたから、大ぴらにできないだけのことだったのかもしれませんが、基本的に”高利の金は借りる方が悪い”ともされていました。

 ある意味で必要悪的な存在でもあったのですが、幕府が公認していた座頭金の場合、返済期限は三ヶ月が一般的ですから、大半が返済できずに利が利を産むといいましょうか、利息制限法なんてのも無かった時代で、”トイチ(10日で1割の金利が付く)”も違法ではなかっただけに、暴利が暴利を産み取り立てにも容赦が無い時代だったようです。

 もちろん、それだけ美味しい商売を黙ってみている人だけではなく、江戸の昔も”名義を借りる”ということは裏の手口として存在していたようで、”座頭の○さんの代理で取り立てを請け負っている”といった名目で、実際には資金の運用や管理まで行っていた人達も複数実在しています。

 もっとも、こうした個人を相手の金貸しを合法、非合法でどうこうというのは今も昔もナンセンスなところがあり、例えば、正規に個人への金貸しが認められている銀行が、実際に個人に生活資金や冠婚葬祭や進学などで必要な一時金の類を無担保かつ低利で即日貸し付けてくれているのか?と考えれば、なぜ闇金融や裏金融を含めて非合法な高利貸しが途絶えないかわかりそうなものではなかろうか?

 そのあたり、銀行の金を貸す方針を”晴れた日に雨傘を貸したがる連中”と評した人がおいでなのですが、”雨の日は傘が濡れることを理由に貸さない連中”と続いたりします(笑)。

 政府や地方自治体、公共団体の対応も似たようなもので、サラ金や闇金から金を借りるな!と法律であれこれ規制はしても、では、”数万~数十万円程度の生活費や冠婚葬祭絡みの突然の出費といった、日常的にショートしがちな資金”を数ヶ月から半年程度の期間で貸してくれるのか?といえば、相談窓口は相談に乗るだけの話で別に金を貸してくれる窓口では無く、それで飯を食う役人が増えるのは確かですが何がやりたいのかは今ひとつ理解の外にあります。

 実際、2010年に行われた貸金業関連の法改正は、法律の条文が決まった段階から闇金関係者が高笑いしていて、オレオレ詐欺が減少するのではないかという噂が立ったことが知られています。

 つまり、闇金融の取り締まりが厳しくなってきてノウハウを流用したのがオレオレ詐欺ですから、また闇金融や裏金融の方が活況を呈すようになれば、優秀な人材はローリスクハイリターンな古巣に戻ってくるだろうという、風が吹けば桶屋が儲かる理論ではあるのですが、実際、既に洒落にならない状況になってきているようです。

 が、まあ、それを私が心配するのも筋違いですから話を戻すと、江戸時代も末期になると、武士というか旗本でさえ資金繰りが悪化して数年先まで扶持米が借金のカタになっていた家が珍しく無かったのは有名な話で、そのあたりから御家人や旗本の株を金銭で売買することが珍しくなくなっていたようです。

 貧乏な浪人というか先祖代々の浪人が、裏長屋でその日暮らしの先の見えない内職生活を続けている一方で、小金を貯めた座頭だけでなく、町人、農民などからも御家人の株を金で買って、中には旗本に成り上がった人も出ていたというあたりでも、幕藩体制の維持に限界が来ていたのは確かな話になるのではなかろうか?

 この手の話で有名なのは、勝海舟の曾祖父の銀一(越後国三島郡長鳥村の貧農の子)が越後から江戸に出てきた座頭で、高利貸しで大成功した話が比較的知られています。

 高利貸しで成功した銀一は、その金でまず当道座の最高位である検校の位を買い、米山検校と名乗るようになるのですが、銀一の子である平蔵には御家人株を買ってやって男谷家を興して(下っ端ではあるものの)幕臣に名を連ねるようになります。

 勝海舟の父親である小吉はその男谷家の三男なのですが、やはり銀一がかなり金を使ったようで男谷家は御家人から旗本へと(特に功績があったわけでもないのに)昇進していましたから、旗本の勝家へ養子に入ることが出来たようです。

 勝家は旗本小普請組でも無役の小身(41石)ですが、天正3年(1575年)以来の御家人で宝暦2(1752)年に累進して旗本の列に加わった古参の幕臣という勝家の家柄は、無理矢理に御家人から旗本へ成り上がった男谷家と比べれば家の格の点では遙かに上ですが、銀一に金はあったわけです(笑)。

 その後、小吉の息子で、銀一にとってはひ孫になる麟太郎が後の勝海舟ですから、勝海舟の出世を考えると、銀一は投資家として大成功したと言えるのではなかろうか?

 ただし、財力の面では銀一の資金を相続した男谷家の方が圧倒的に豊かだったようで、勝海舟が父である小吉の実家の男谷家(本所亀沢町)で産まれ(文政6(1823)年)男谷家で7歳まで過ごしたあたりでも、勝家の養子になったというのが”事実上書類の上だけだったんじゃないの?”という気がしないでもない(笑)。

 ちなみに、小吉の実家というか勝海舟にとっても実家に等しい男谷家といえば、幕末の剣客として知られる(勝海舟にとっては従兄弟の)男谷精一郎の道場ですから、銀一は”貧乏百姓の子孫→御家人→旗本→道場主”が実現可能なだけの金を稼いでいた計算になります ・・・ 少なくとも幕府から御家人に与えられていた扶持米では不可能な出世というのは確かです。

 この銀一の商才のようなものは勝海舟にも受け継がれたようで、蘭学修行中に辞書”ドゥーフ・ハルマ”を1年かけて2部筆写し、1部は自分用、もう1部は売って金にしたあたり、同じ時代に同じような条件で蘭学を学んだ連中がやらなかったことだからこそ、”有名な逸話”として知られていると言えます。

 その後も、旗本でありながら蘭学と兵法学の私塾を田町で開いていたということは、扶持米の他に私塾関係からの収入も得て複数の収入源を持っていたということであり、明治維新後に”武家の商法”と揶揄される生粋の武家からはなかなか出てこない発想であり行動力ではないかと。

 ただし、この勝海舟の(銀一からの系譜では不思議ではないのですが)武家らしくない才覚や行動は、軍艦奉行となったときにも遺憾なく発揮され(笑)、神戸の海軍塾に脱藩者を含む薩摩や土佐の素性が不明な連中(坂本龍馬なんかですな)まで受け入れて、神戸海軍操練所の設立に繋げています。

 が、この勝海舟の官僚らしからぬ先を見越して投資するようなやり口が、保守派といいましょうか先例と格式を重んじる先祖代々の御武家様達にはお気に召さなかったようで、唐突に軍艦奉行を罷免され蟄居生活を2年ほど送ることになるのですが、皮肉なことに、その間に、おそらく海軍塾や海軍操練所でうろうろしていた薩摩藩関係者などの仲介があったのでしょうが、西郷隆盛と知遇を得ており、その西郷からの手紙で大久保利通が勝海舟を知るという後になって大きな意味を持つ流れが産まれています。

 明治維新後の勝海舟は幕臣だったにもかかわらず、参議、海軍卿などを歴任し、伯爵に叙され、枢密顧問官にもなっているのですが、徳川慶喜を明治政府に赦免させ特旨をもって公爵を授爵できるように奔走したり、旧幕臣の再就職の世話や資金援助などにも奔走して旧幕臣達の反乱を可能な限り封じることに腐心しているあたり、本来ならば徳川幕府で将軍とか老中とか石高の高い旗本だった連中が率先して行うべきことだったのではありますまいか?

 そもそも論でいえば、戊辰戦争から江戸城無血開城の頃の逸話の多くは、実働部隊である下っ端の旗本や御家人ほど借金漬けになっていたこともあってか不平不満が高まっていたためか盛り上がりに欠け、かといって身分と石高の高い旗本や役付きの御重役方には命と今の生活を失うことが惜しい人が多かったようで、少なくとも”じゃあ、俺が官軍の西郷隆盛と停戦交渉をしに行ってくらあ。”とは誰も言わなかったわけです(笑)。

 もっとも、勝海舟の幕臣の評としては、亜米利加から帰国した時に彼我の差を問われたときの、

 ”我が国と違い、アメリカで高い地位にある者はみなその地位相応に賢うございます。”

という有名な返答が全てを物語っている気がしないでもありません ・・・ 現在の日本でも通用する批評であるあたりが最大のアイロニーになっているかもしれませんが(大笑)。

初出:一夢庵 怪しい話 第3シリーズ 第944話:(2010/10/26)





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Last updated  2010.11.01 00:38:39
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