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2010.11.05
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カテゴリ:食品
一夢庵 怪しい話 第3シリーズ 第948話 「江戸の胡椒」

 江戸時代に庶民が使っていた調味料といえば、初期は酢と味噌、芥子、中期くらいから醤油や味醂の普及が始まっていくのですが、発酵の産物である味噌、醤油、酢、味醂といったものは扱いが何かとめんどくさかったようです(笑)。

 それはさておき、江戸時代のレシピ本というかお総菜本というか微妙なベストセラーに”豆腐百珍(天明2(1782)年)”という豆腐を使った料理だけを集めた本があるという話はこれまでに何度かしてきたのですが、そこに掲載されているレシピには胡椒を使う料理が何品か登場しています。

 ひっかかったのは、100円ショップで小瓶のテーブル胡椒が買えて、毎年7000~8000トン程度は胡椒を輸入している現代ほどではないにしても、庶民の晩ご飯ネタ帳としても活躍したであろう”豆腐百珍”に登場するほど胡椒は江戸時代にポピュラーになっていたのか?という事です。

 まあ、日本の場合は、欧羅巴よりは胡椒の産地に近かったことと、唐の時代に既に中国が日本へ胡椒や砂糖を輸出していて、それ以降の王朝も日本へ輸出していますから鎖国の時代以前から普及が始まっていて鎖国の最中もかなりの量が輸入されていたようです。

 ただし、中国でも熱帯植物の胡椒の栽培はできなかったようですし、そもそも、西方から伝来した香辛料という意味で”胡椒”と名付けたわけですから、中継貿易をしていたに過ぎません。

 もちろん、砂糖も胡椒も最初の頃は医薬品として使われていた時代が長いのですが、胡椒に関して言えば、平安時代初期の頃の”本草和名”という草木系の漢方薬の原料を列記した本に、産地が西戒で唐からの輸入薬として登場していますし正倉院に胡椒の粒が保存されている(いた)そうですが、薬草かどうかはともかく、胡椒には強力な殺菌、抗菌作用があります。

 意外なところでは、エジプトの木乃伊の鼻の穴に胡椒の実が詰められている事があるのですが、鼻の高さや形状を保つためではないかと考えられているものの、それだけのために、印度から取り寄せるしかなかったでしょうから、恐らくは同量の黄金や銀より高く付いたであろう胡椒を使うものなのか?という気がしないでもありません。

 ラムセス二世(紀元前1302頃~紀元前1212)の木乃伊の鼻にも胡椒の実が詰められていたということは、紀元前千年以上前に、木乃伊を作成する場合、胡椒の何らかの薬効が必要な事が遠いエジプトまで知られていた上に、エジプトへ胡椒を取り寄せることが可能だったということは、原産地の印度(マラバル地方)でそれ以前からそういった知識が一般化していただけでなく、異国にまで胡椒の効能が知れ渡っていたことになるのではあるまいか?

 胡椒の原産国である印度では、胡椒などを薬や香辛料として使う文化が、起源が定かでは無い昔から成立していたようですが、仏教が日本へ渡来した頃には印度の香辛料の文化も幾らかは渡来したと考えられるのですが、香辛料が渡来する経路としては、宋の時代には陸路のシルクロードだけでなくインドシナ半島経由の海路も機能していたようです。

 いずれにしても、日本で胡椒を調味料というか香辛料として利用したのは仏教の僧侶だったようで、少なくとも室町時代の精進料理のレシピには胡椒が登場しますし、京都や大阪などの市中で胡椒を小売りする店が既に存在していたのも確かな話になります。

 初期の仏教の興味深いところは、肉体的精神的にギリギリのところまで難行苦行で追い込んでランナーズハイらしき状態を誘発したり、(明記はしませんが)某薬草などを使ってトリップさせたり神秘体験を誘発させたりしている事で、極限状態のその向こう(あの世に近い場所)を垣間見ようとしているように思われることです。

 もっとも、西洋魔術などでも似たような経緯を辿っていて、肉体や精神の鍛錬を兼ね(実際にはその向こう側を目指し)た難行苦行、薬草の知識といったあたりは共通していますし、やがてそこに性魔術の類が導入されて一つの流派を形成していくあたりも共通しています。

 ある意味で、どのような手口であれ、脳内麻薬がざぶざぶとあふれ出るような状態になったとき、従来は使われていなかった領域が動き始めるのかもしれませんが、そこに”悟り”を求めたとすれば ・・・ と考えていくと、胡椒って案外と怖い存在の一翼を担っていたのかも知れません(笑)。

 江戸時代の胡椒事情を記したものとしては、井原西鶴の”日本永代蔵”があり”いったいに、唐人は日本へ物を売る時、製法などは決して教えない。胡椒粒にも沸湯(にえゆ)をかけて渡すぐらいだから、胡椒の木を見た者がなく(中略)或る時、高野山の某院で、一度に三石も蒔いたら、その中で、二本だけ根付いて、それから日本でも胡椒を産するようになった”としています。

 が、もちろん、ほぼ全文がフィクションで、高野山の僧坊の精進料理などで胡椒が多用されていたとは考えられますが、熱帯植物である胡椒が、あの高野山の環境で根付いて生育し、産するというほどの産地形成ができるほど増殖したはずが無いと私なんぞは考えてしまいます ・・・ 密教の秘技で可能かどうかは寡聞にして存じませんが(笑)。

 というのも、現在でも胡椒は接木栽培が主流なくらい種から発芽させて生育させる事が困難な植物だからですが、さし木に成功すれば3年程度で果実をつけるようになり、10メートル近くにまで成長することもあるのですが、管理栽培の場合でも15~20年くらいで寿命が来るようです。

 まあ、井原西鶴の書き残したものをどこまで信じるかは微妙ですが(笑)、実際、井原西鶴の頃は定番の薬味として饂飩に唐辛子ではなく胡椒が用いられていたようですが、いつ頃とは断定できないものの、胡椒が饂飩の薬味の主流だったのは江戸時代前期くらいまでで、 江戸時代の後期になると七味唐辛子(七色唐辛子、七種唐辛子:赤唐辛子粉(漢方の蕃椒)に、山椒、麻の実、芥子の実、胡麻、陳皮(ちんぴ:ミカンの皮)、紫蘇、生姜、菜種、・・・、海苔などを食文化に応じて配合する)が流行し、饂飩に胡椒より七味唐辛子を入れる人が多くなっていって、饂飩に胡椒の組み合わせは衰退したようです。

 七味唐辛子は京都、長野などでそれぞれの土地の食事の傾向に合わせて配合が変化していくのですが、青海苔などは戦時中の物資不足の時に芥子などの代用にしたあたりから加わるようになったようです。

 というか、江戸中期頃から饂飩より蕎麦切り(というかざる蕎麦やかけ蕎麦)の方が江戸の町で主流となり、さすがに蕎麦に胡椒は合いませんから、まず蕎麦の薬味として七味唐辛子の需要が増大し、饂飩も七味唐辛子で食べみたら胡椒より好む人が多かったから胡椒が廃れて一味や七味の唐辛子が主流になっていったようです。

 歴史的に、七味唐辛子が薬研堀(やげんぼり)と呼ばれたり、その七味の材料が本来は漢方薬の原料ということから分かるように、江戸時代に両国橋近くの医者町としても知られていた薬研堀町(東日本橋1丁目界隈)で漢方薬の調合からヒントを得た(初代)からしや徳右衛門によって寛永二(1625)年に作られたのが七味唐辛子で、客の辛さや風味などの要望に合わせて漢方薬のように調合して販売していたのが後の”やげん堀唐辛子本舗”になるそうですが、江戸名物になるほどの大ヒット商品になっていきます。

 胡椒と唐辛子の混在というか、刺激物として一緒くたにしていたのではないかということでは、落語の”くしゃみ講釈”が有名で、大凡の内容は、デートを講釈師に邪魔された男が、報復方法を兄貴分に相談したところ、講釈師が講釈場で講釈を始めたら火鉢で胡椒を燻してくしゃみをさせて報復すればいいと智恵をつけられて胡椒を買いに行くのですが、胡椒を買おうとするまででも一波乱あります。

 紆余曲折の末、結局、胡椒は売り切れで入手できなかったので代わりに唐辛子の粉を買ってきて、教えられた手はず通りに火鉢にくべるのですが、怪我の功名といいましょうか、その煙を擦った講釈師の話は支離滅裂なものになってしまいます。

 この話はオチを書いてしまうと今ひとつ面白みに欠けるので止めておきますが、恐らく最初はシンプルな話だったものが、胡椒を買いに行くあたりを膨らませすぎて難解になったんじゃないか?と邪推しないでもありませんし、胡椒を買いに行く場面だけが独立したような類似性の高い話が幾つか存在します。

 元来、唐辛子は亜米利加原産の熱帯植物で、クリストファー・コロンブスが1493年に西班牙へ持ち帰ったものが海外へ初めて持ち出された唐辛子だったのですが、あまり関心を持たれなかったようで、伯剌西爾で唐辛子を再発見をした(ことになる)葡萄牙人によって世界中へ伝播されていくことになり、日本への伝来も、天文21年(1552) 年に葡萄牙人宣教師のバイタザール・ガーコ神父が豊後の国守”大友義鎮(よししげ。出家後に宗麟:そうりん)”に献上したのが記録に残る最古の事例になるようです。

 ただし、当初は食用より観賞用や足袋に入れて霜焼け対策の薬用(?)に用いられて普及したようで、その刺激から目つぶしの粉などにも配合されていきますが、今から見ればその用途の混迷ぶりは、西班牙で忘れ去られたのも”何に使うのか?”が今ひとつコロンブス達にも分かっていなかったからではないのか?という気がしてきます(笑)。

 脱線しすぎた話を最後に胡椒に戻しておくと、黒胡椒と白胡椒の違いは品種の違いではなく製法の違いで、黒胡椒は胡椒の木から未熟な内に実を収穫して乾燥させたもので、香りが強いこともあって肉類の料理や保存に多用され、白胡椒は熟してから収穫して乾燥させた後、水に漬けて外皮を柔らかくしてから剥いたもので、熟成が進んだだけ風味がマイルドになるようですが、ミルなどを使ってその場で轢かないと100円ショップの胡椒だと違いがそれほど無いような気がしないでもありません。

初出:一夢庵 怪しい話 第3シリーズ 第948話:(2010/10/30)





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Last updated  2010.11.05 00:14:38
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