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2010.11.23
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カテゴリ:食品
一夢庵 怪しい話 第3シリーズ 第963話 「白牛酪」

 日本の酪農は1-963”ハリス牛乳”の回で触れたように、古墳時代後期くらいから仏教が国教化していった関係で”肉は食うな!”となっていったものの、牛乳に関しては(薬として)、蘇(そ:濃縮乳?)・酪(らく:ヨーグルト?)・醍醐(だいご:チーズかバターオイル?)などに加工して食べるようになっていたあたりを始まりとして良さそうです。

 もちろん、それ以前から乳の出が悪い女性がいれば、山羊や犬の乳を拝借するような利用はあったでしょうし、人の赤ん坊を含む異なる種の乳児に自ら授乳させ母親代わりになる母犬(狼、狐、・・・)の話が洋の東西を問わず散見されるのは御存知の通りで、その意味では乳母が登場したときに酪農が始まったのかもしれません。

 もっとも、日本で酪農の記録が残るようになるのは天皇家を含む貴族階級が仏教伝来後に滋養強壮の薬というか食材として普及するようになってからで、仏教の開祖である仏陀は断食の終わりにスジャータという名の少女から貰った乳がゆを食して35歳で悟りに達した(成道:じょうどう)とされています。

 当然、優婆夷(女性在家信者)は仏陀が悟りを開いた後に登場するわけですが、スジャータとその下女達を最初の優婆夷と解釈する仏典もあるようですから、そういった話も同時期に渡来していたと考えて良いのではないかと考えられます。

 印度の説話集などでも珍しく無いのが、苦行する人への施しや善行で自らも徳を積むことになるという後の陰徳積みに通じる風習で、苦行僧などに施しをすること自体は珍しい話ではないのですが、スジャータは、いいところに嫁いで男子を産めたら神々に御礼をすると願を掛けて願いが叶ったので誓いを実行していたとされるだけに、仏陀への施しも乳がゆ一杯だけだったとは思えません。

 スジャータが仏陀に何を食べさせたのか?ということは”スッタニパータ(南伝仏教のパーリ語経典の一部。仏陀の言行録とでもいった内容 ・・・ らしい(笑))”あたりの説が採用されているのですが、スジャータは乳がゆに、諸天妙汁(Oja)を加えていたとされるものの、牛の乳なのか山羊の乳なのかも実は定かではなく、諸天妙汁が何なのかも実は良く分かっていません(笑)。

 スジャータに出会う直前まで仏陀は断食を含む難行苦行をして衰弱していたことになっていますし、そういった状態になっている人に食べ物を与える場合、肉は論外で米や小麦でも固形で与えると死に至る事もあるのは比較的知られた話ですから、一番考えられるのは、乳幼児への離乳食と同じような物が与えられたと考えるのが妥当で、当然、強いスパイスなども考えにくいのではないかと。

 となると、山羊の乳に食塩を加えて煮たものという可能性も出てくるのですが、諸天妙汁の字面から考えれば、塩と若干の柑橘系の果汁を加えて乳のタンパク成分の凝固を促進したり、消化を助ける目的で生姜の絞り汁を加えたと推測することにさほどの無理は無い推測ではなかろうか?

 そういった推測が正解だと言い張る気は無いのですが、アーユルベーダを持ち出すまでもなく、古代印度でスパイスを含めて食材の薬効というのはかなり知られて日常的に利用されるようになっていたようですし、断食などの苦行を行う人が珍しくないだけに、苦行を終えた人の状態に応じて何を与えればいいか何を与えてはいけないかもまた、経験的に知られていった常識の類だったと考えていいのではなかろうか?

 それはともかく、日本に仏教が渡来したとき、貴族の女性達からすればスジャータの話は印象的だったでしょうし、男女を問わず”難行苦行では悟れず、乳がゆを食べれば悟りを開ける ・・・”と微妙な勘違いをした人も珍しく無かっただろうな~と(大笑)。

 ま、単純に飲み食いして美味しく、日常的に飲み食いしている人達の血色が良くふくよかになっていくのを目の当たりにすれば、そこに薬効を感じる人は珍しく無いでしょうし、天平時代くらいの美人図の美人とされるオネエサン達がデブとまではいわないでもふくよかである事は、当時の貴族階級の価値観が反映していると考えられます。

 不老不死の妙薬ではないけれど、牛乳やその加工品を飲み食いしていると元気でふくよかになる滋養強壮の薬効があると実証されてくると、後は独占したくなるのが権力者というものでしょうし、典薬寮(てんやくりょう、今風に言えば厚生労働省。陰陽道を司る役所なら陰陽寮。)に乳牛院(これも今風に言えば乳牛庁といったところか?)を創設して、直営農場として御牧(みまき)で専門の乳夫が牛を飼育し日々の牛乳供給の安定化に勤めた ・・・ ようです。

 ここでお断りしておきたいのは、便宜的に、蘇(そ:濃縮乳?)・酪(らく:ヨーグルト?)・醍醐(だいご:チーズかバターオイル?)に加工したとは書いているのですが、その正確な処は乳がゆ(P?y?sa)並に謎で、余剰生産された牛乳を保存するために牛乳を十分の一くらいになるまで煮詰めたのが蘇で、かなり日持ちしたようで、全国から蘇を上納させています。

 逆に言えば、少なくとも、越後、下総、・・・、伊予、周防といった範囲から蘇が朝廷へ上納されていた記録が残っているということは、ほぼ全国で搾乳目的の牛が飼育されるようになっていたということでもあり、奈良時代くらいに既に酪農がかなりの広域で普及していたと考えていいのかもしれません。

 この蘇を更に加工すると醍醐となるとされ、その醍醐を生前に好んだことから醍醐天皇と亡くなられた後に称されたという話があるのですが、少なくともそれくらいポピュラーに食されるようになっていたのは確かな話ということで、その後も、平安時代の貴族の食事などを見ていると意外と(加工)乳製品は食されているのですが、乳製品だけに限らず、次第に酒の肴のようなメニューになっていくのは比較的知られた話だたりします。

 が、そういった古代の酪農王国も、藤原家など貴族の影響力が衰退するに比例するかのように武家が台頭し、源平の争乱を経て武家の世へと移り変わっていったことで、牛車に象徴される貴族文化から騎馬に象徴される武家文化へ移り変わることとなり、日本の牛乳文化は衰退し、牛も農耕用の動力としての利用が主になっていくのですが、ある意味で、最大の消費者であった貴族階級の衰退が牛乳文化の衰退に直結したと考えていいのではないかと思われます。

 武家が酪農にさほど固執しなかったのは、やはり現場の実働部隊である武士の方が都の貴族より絶対数が多く、畜産で家畜に餌を与えてその生産物で養える人口(というか供給できるカロリー)よりも、人間が直接その餌を食べたり、餌を栽培する耕地で作物を生産した方が養える人口が多くなるというあたりが主な理由ではなかろうか?

 その後、牛乳文化が復権するのは、戦国時代末期に南蛮貿易が盛んになり宣教師など外国人が渡来し、海外の珍しいモノを各地を実効支配していた戦国大名などに献上するようになってからになるようで、この頃から、私たちの知るバターやチーズなどとさほど違いがないものが渡来しているようです。

 別に武家の世の中になったからといって搾乳目的の牛が根絶されたわけではありませんし、牛乳が入手可能であれば、当時の日本でも牛乳を入手してバターやチーズを製造することはさほど難しい話ではありませんから、ある程度の期間滞在した宣教師達が現地生産を試みても不思議では無いわけです。

 逆に言えば、この頃に、西洋人が牛乳やその加工品を飲み食いしたことで”牛乳を飲むと角が生える”という一連の都市伝説が産まれた可能性は高く、戦国の世が終わり、世の中が安定してきても庶民が牛乳や乳製品を口にするようになるには明治の御世を待つ必要があったのは確かな話になります。

 結果的に、江戸時代の乳、乳製品というのは”薬”の位置付けで、元禄の初期に書かれた”本朝食鑑”などを信じればですが、蘇や酪の効能として、病気を直接治す薬ではなく、滋養強壮に卓効があるといった解説になっていますから、それこそ中年を過ぎてあちらの方が弱くなってきた権力者達が、夜のお勤めのために秘薬として重宝していたとしてもさほど驚きません(笑)。

 実際、戦後の日本で、通常は何年もかけて審査してぐだぐだする事が珍しく無い新薬の審査と認可で、驚異的なスピードで審査が終了して認可されたものの中にバイアグラがあり、経口避妊薬のピルなどが延々と何年も店晒し状態だったことと比較してあれこれ揶揄されたのは比較的知られた話ですから、今も昔もやっていることの本質に大差は無いのかもしれません。

 ちなみに、鎖国下の日本でも阿蘭陀人は長崎出島を経由して交易しているのですが、彼らが将軍家に献上したものにチーズがあり、乾酪といった表現になっていますが、あの巨大な碁石のようなチーズのブロックを持ち込んでいたようで、ゴーダチーズなどを5代・綱吉あたりが食べた可能性はかなり高いようです。

 まあ、綱吉といえば跡継ぎの男子に恵まれなかっただけに、あちらの方にも晩年まで励んだでしょうから、そんな将軍に精を付けさせ滋養強壮のために阿蘭陀の舶来チーズを参考に西洋式のチーズの製造を試みた可能性もありはします。

 その成果かどうかは微妙ですが、八代・吉宗が千葉の嶺岡牧で享保12年に印度産の白牛を雌雄3頭飼育し(後に70頭を越える)、白牛酪(バター)を”(滋養強壮や解熱、結核)薬”として生産して民間の病人に供与したり、馬の治療にも利用したという話は以前にしたことがあるのですが、白牛酪を便宜的にバターとはしたのですが、牛乳に砂糖を加えて煮詰めて石鹸のような固形状にした代物です。

 そうした吉宗の遺産である白牛は11代・家斉の頃には増えに増えて70頭規模になっているのですが、その間の将軍達が好んで食したという記録には今のところ遭遇していないのですが、家斉はその内の数頭を江戸城に持ち込み、竹橋の厩で飼って白牛酪を近場で製造するようになり、余剰分は民間に放出したようです。

 かくして、年輩で小金を持っている男性や隠居達が、若い女性(いわゆる御新造)に入れあげるときに高価な白牛酪を入手するために金に糸目を付けなくなっていったようで、そういった前段があったと知ると、生活に困っていたわけでもない明治の元勲が意外と酪農を副業にしていたことに別の意味も邪推してしまうのですが(笑)。

初出:一夢庵 怪しい話 第3シリーズ 第963話:(2010/11/17)





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Last updated  2010.11.23 00:14:27
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