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2011.08.08
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カテゴリ:軍事
一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第178話 「馬の速度」

 馬(奇蹄目ウマ科)の先祖は、第三紀の初め(5000万年前くらい)に北亜米利加に出現したものの、北亜米利加では絶滅し、第四紀初めに亜細亜大陸に渡った種が現在の馬へと進化していったと考えられています。

 なぜに北亜米利加で馬の先祖が滅んだのか?は定かでは無いのですが、大航海時代になって欧羅巴から馬や牛、羊、豚といった家畜が持ち込まれたとき、南北亜米利加大陸に馬の姿が無かったのは確かな話になり、ある意味で、恐竜が姿を消したのと良い勝負のミステリーかもしれません。

 亜細亜に渡ってきた馬は、イラン高原、西トルキスタンの草原などなど、幾つかの地域で紀元前3000年頃に家畜化されているのですが、不思議なことにほぼ同時期に家畜化されていますから、この頃に何処かで誰かが馬を家畜化するノウハウを開発したと考えられます。

 当初は1種類だったと考えられる馬(の先祖)も、分布する地域が多様化するのに比例するかのように多彩な進化を遂げ、現在では大きさや形の違いまでいれれば200を越える品種に分かれているのですが、意外なことに、縞馬は骨格的に馬とは別物でロバ類と同じように別枠の類を形成しています。

 これを書いている時点で”馬”といって連想する人が多い種は競馬などに用いられているサラブレッドですが、その歴史は意外と浅く、17~19世紀中期に英国の在来種に東洋系の馬種を交雑させて産まれた雌馬に、ゴドルフィン・バルブ、ダーレー・アラブ、バイヤリー・タークを交配させて創り出されています。

 サラブレッドの体高は約160センチ、体重は480キロくらいが平均どころですが、サラブレッドにアラブ種の馬を交配させるアングロ・アラブ種もだいたい体高が160センチくらいですから、そのくらいが馬の走る速さと飼育の難度などから落ち着いた上限なのかもしれません。

 ちなみに、アラブ種はペルシアやイエメンの馬を2000年以上かけて遊牧民のベドウィン族が作出した種で、種として安定していることから、品種改良の原種として利用されることが多いのですが、体高が150センチくらいでサラブレッドなどよりやや小柄になります。

 もっとも、それを言い出すと、モウコノウマ系の日本在来の馬はもっと小柄だったようですが、渡来はどうも秋田のあたりだったようで、東北の南部馬、秋田馬、三春馬が種として知られ、牧の発達も東日本の方が西日本より早く広範囲に広がっているようです。

 馬が平原に適応し丘陵や山岳地帯を苦手とする動物であることは比較的知られた話ですから、日本で馬の生息に適した地域は自ずと限られてくるのですが、興味深い事に、日本の在来馬に関して言えば、山岳地帯での活動に対応して進化していったようで、サラブレッドなどと比べればですが、山岳地帯の走破性などには適性を示しています。

 ただ、サラブレッドなどより小柄で、平原というか比較的平たい場所での速度が遅く、荷馬としても体力に劣る上に、気性が荒いため、中国大陸などでの戦争が前提になっていく明治以降になると、外国産の品種を輸入し交配する機会が増加し、在来馬の原種はほとんど姿を消していってしまい、北海道和種(いわゆる”道産子”)、木曾馬、宮崎県都井岬の御崎馬などなど7馬種がほぼ原種として残存している程度になっています。

 まあ、馬の不幸は、桜肉(さくらにく)が独特の癖と匂いで好みが分かれるものの、脂肪分が少なくタンパク質とグリコーゲンに富むことから食用肉として利用されていることで、籠城戦などで食料が不足してくるとしばしば生姜を加えて味噌で煮込んで食べられてしまった記録が残っていますが、現在でも桜鍋(さくらなべ)やニュー・コーンビーフなどの缶詰肉に供されていたりします。

 これまたちなみに、現在の加工肉製品で原材料のところに馬肉とある場合、競走馬として勝ち残れなかったサラブレッドなどが含まれている事が多く、その意味では現在の馬たちの方が戦国時代の馬たちより過酷な運命に晒されている気がしないでもありません。

 それでも、日本では仏教が伝来して以降、明治になるまでは肉食がタブーとされ、”薬食い”という抜け道はあったにしても、籠城戦とか飢饉年といった特殊な状況でもなければ、一般人がおおっぴらに馬を食べることは無く、武家においても馬が一種の”いつかはクラウン”という感覚に通じるところがあるステータスになっていたようです。

 以前にも書いたように、戦国時代の兵種で騎馬隊というのは、全体の1割程度なら多い方だったようで、そもそも平地に乏しい日本で騎馬にどれほどの優位性があったのか?は疑問が残るところですが、30キロを越えるような鎧甲冑を身に纏っている戦国武将ともなると、徒歩で長い距離を移動するのが無理といえば無理ではあります。

 逆に言えば、日本の戦時における騎兵というのは、鎧甲冑を身に纏って徒歩で移動するのが難しくなった武士の移動の足としての役割が主だったということで、西洋などの騎馬隊による突撃という戦術が主流になることは無かったようで、いろいろ調べてみても、騎馬隊が騎馬隊と激突した戦いというのが皆無に近かったりします。

 つまり、日本の戦場で馬というのは、伝令役に多用されたり、荷馬として利用されている事例の方が騎兵の乗馬として利用されている事例より圧倒的に多いということですが、体高が130センチくらいのサラブラッドなどより小柄な馬が主流だったようですから、大柄な人はそもそも乗ることのできる馬が限られていたようで、馬が報償として与えられているあたりでも、良質な馬を手に入れることが難しかったことが分かります。

 日本で騎兵による突撃攻撃が普及しなかった理由として、騎馬が疾駆できるだけの平原が限られていた(戦場が狭い)ことと、歩兵が長柄の槍を装備し密集体系で迎撃する、いわゆる槍襖(やりぶすま)を形成することで騎兵を刺し殺す対処法が戦国時代には既に普及していたことがあり、長柄の槍が普及したことで、日本の歩兵が古代羅馬のファランクスと同じような戦術に辿り着いたとも言えるのですが、不思議なことに日本では古代の馬に引かせる戦車が普及しなかったこともあって騎兵の突撃は封殺されてしまいます。

 中国では、重武装した歩兵に対応する騎兵の戦術が幾つか開発されていますし、馬が引く戦車に近い装備も実用化されていますから、なぜ日本で騎兵が戦場の主役に返り咲くことが無かったのかは謎ですが、時代的には、長柄の槍が普及するのと、火縄銃が普及するのがほぼ同時期だったようですから、槍には対応できても火縄銃には対応できなかったと考えると筋が通ります。

 また、丘陵地帯が多く木材に恵まれ、平たい場所は河川の堆積土壌や火山灰土など土地が柔らかい場所が多い日本では、人力だけでも陣地形成が容易で、壕を掘ったり、馬防柵を張り巡らせたりすることで騎兵の生命線である移動速度を削ぐことができ、突破力とでもいったものが陣地形成によって封殺されるようにもなっていきます。

 この、騎兵の機動力をある程度制限した上で圧倒的な火力で封殺するという戦術発想は、日露戦争当時の世界の騎兵の最高峰と目されていたコサック騎兵隊に対して劣勢というか脆弱な日本の騎兵が簡易陣地を形成してマシンガン(機関銃)を使用して対抗する戦術にも見ることができ、実質的に馬は荷物の運搬と兵の移動に用いて戦闘には(主力としては)用いないという日本以外の国ではあまり普及していない発想は、戦国時代まで遡れば騎馬に対抗する定石であったと言えなくもないわけです。

 そういえば、以前、内藤新宿の由来に関して、天正18(1590)年に、家康の鷹狩りの供をしていた関東奉行の内藤清成が家康から”(1日の内に)馬で乗り回せただけの土地を与える”と言われて実際に馬を乗り回して手に入れた内藤氏の土地だから内藤新宿と後に呼ばれるようになったといった話を書いたことがあるのですが、実は、同じ時に他にも同じ条件で土地を入手した家臣がいたことになっています。

 そんなにアバウトに土地を配分していたのか?と言いたくなる逸話ですが、もう一人は、青山忠成(ただなり)で、現在の東京の青山の地名の由来はその時に馬で駆けてもぎ取った土地から来ているそうですが、別の説では、青山の地名は青山街道に由来するとされていて、微妙~な部分もあるのですが、内藤新宿の由来がどうも実話ベースのようですから、青山もまた青山の土地を通っている街道だから青山街道という呼称が定着したと考えた方がいいのかもしれません。

 もちろん、たまたま青山氏の土地になった場所に昔から青山街道が通っていた可能性もあるのですが、おそらく内藤氏と青山氏が家康からそういった奇抜な方法で土地を与えられたという話は当時かなり話題になったでしょうから、古くからの名称が”ナントカ街道というのは、あの、青山氏の土地を通っている街道”とかいった具合に言い換えられていってもさほど不思議でも無い気が私はしています。

 この、1日(とか半日)と期限を切って、その時間内に馬で走った土地を与える話という話は、中国の古典に類似した話が無いわけでもないのですが、家康がそういった話を知っていてやってみたかったのか、後の講釈師がでっちあげた”お話”なのかは実のところ(今となっては)定かではなく、そもそも、どうやって走った範囲を特定できたのか?という肝心のところが謎で、家康も一緒に走ったのか?見届け人が何人か併走したのか?自己申告だったのか?謎の残るところではあります。

 ちなみに、中国の古典などで散見される類似の話では、弓の名手に放った弓矢が届いた範囲の土地を与えるといった話で、この方式の場合は実際に与えても豪邸を建てればいっぱいいっぱいで、1ヘクタール(100メートル×100メートル)ももぎ取ればたいしたものでしょうから、報償として適当なサイズのような気がしないでもありません。

 家康の晩年の逸話とされるものには、頓知話というか講釈師などが練りに練ったような逸話が多く、どこまでが本当でどこからが嘘か微妙~な気がしてくる話もあるのですが、ま、素直に話の面白さを楽しめばいいだけのことかもしれません(笑)。


初出:一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第178話:(2011/08/02)





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Last updated  2011.08.08 00:45:23
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