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2013.05.10
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カテゴリ:軍事
一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第706話 「首都防衛考3」

 日本も昭和の昔に、5.15事件(昭和7(1932)年5月15日)や2.26事件(昭和11(1936)年2月26~29日)といったクーデタを経験しているわけですが、クーデータはどういった手順を踏むことになるのか?何を持ってクーデタが成功したことになるのか?という逆の視点で考えると何を防衛するか、どういった場所が制圧の対象となるかが分かりやすくなる気がしないでもありません。

 クーデタの定義としては、武力によって国を実効支配している権力者集団を急襲して短時間の内に政権を転覆させる行為とでもいったことになるのですが、理論上は非合法な手法による政権移動現象とでもいったことになります。

 クーデタが革命( revolution )と違うところは、革命が金持ちと貧乏人といった異なる社会階層間の政権の移行で階級闘争を伴うことが多いのに対して、クーデタは同じ支配者層内部での権力闘争の延長上でも発生することで、実質的に政権担当者の交替程度で話が終わることが多く、それこそ10年の間にクーデターが十数回起きたという冗談のような実話もあります。

 まあ、日本の小泉内閣が終焉を迎えて以降の総理大臣が1~2年くらいで交代してコロコロ入れ替わっていて、考え方によってはクーデタが頻発して国のトップが頻繁に入れ替わっているのと大差が無いだけに、ある意味で無血クーデタの作法のようなものがあるような気さえしてくるだけに、なんだかな~と思わないでもありません。

 一応、一連の騒動によって生じる死者の数が革命の方がクーデータより大きくなる傾向がありますが、革命、クーデタ、テロの類の違いというのは、それによって権力奪取に成功したか失敗したかの違いで呼称が違っているだけという説もありますが、政権奪取までの過程で必要以上に襲撃した側が殺戮を繰り広げていれば、襲撃した側が処刑される側になったときに同じ目に遭わされても文句が言えないこともあってか、少なくとも必要以上の殺傷行為を回避するクーデタの方が多いようです。

 逆に、クーデタが失敗した場合は、犠牲者数や金銭的な被害など市民暴動と大差が無いことも珍しくありませんから、クーデタが発生する以前に施行されている法律に基づいて捌かれることが多くなり、日本の現行法のようにその辺りが甘い法律しかなければ、一連のオーム事件の推移を見ていても分かるように、都心のど真ん中で乗降客の多い朝のラッシュ時に致死性で後遺症の残るサリンのような毒ガスをまき散らした、人類史上希な、無差別テロを実行した実行犯さえ国家反逆罪で死刑にすることができなかったりします。

 客観的に考えて、オームが起こしたサリン事件というのは、無差別テロというよりも、失敗に終わった軍事クーデタの一つの局面に過ぎないだけに、本気で追求すれば(当時の)現役の国会議員から連座する人が出るから、曖昧というか有耶無耶にしたがっているのではないのか?と邪推しないでもありません。

 まあ、サリンを朝のラッシュ時に散布する行為というのは、同時多発的に行わなければ意味が無く、東京、名古屋、大阪、福岡といった広域で一斉に同時多発させ、全国の警察機能などが現状を把握しきれずパニック状態に陥っている間に、別働隊が自動小銃と爆発物で武装して内閣総理大臣や閣僚などを襲撃しなかった事が不思議で、その意味では地下鉄サリン事件(1995)というのは、無差別大量殺人事件ではあっても、クーデタやテロ未遂というわけでもない中途半端で奇妙な事件と言えます。

 当時、サティアンと呼ばれた教団関連施設を事件後に捜索した際に、某国の関与を疑うに足りる十分な物証が出たけれど、(当時)某政党との関係が(中略)で臭い物には蓋というか有耶無耶にされたままになっているといった都市伝説めいた話もあり、半島情勢が緊迫化してくるたびに問題点として指摘される、国内に潜伏している軍事訓練を受けた大量の非合法工作員をどうするのか?という話とも絡んでくるところがあります。

 二大政党制を主張してリアル世界の左の代表政党として国政選挙に臨んで、長らく政権を掌握していた右の代表政党の自由民主党を破って民主党が与党になってからの3年程の間にやらかした数々の売国政策や外交無策も同じ左翼に属するネトサは肯定するのでしょうから、そもそもの立ち位置が違うわけで議論するだけ時間の無駄ではあるわけです。

 もっとも、主催者が右だろうが左だろうが、革命やクーデタというものは、発生から事態の終息までが長引けば長引くほど(国連を含めて)外国勢力の介入を招くことになりやすく、場合によっては軍事介入もありえるというのが歴史の示すところで、国と国との関係という国際社会における交渉事というのは、実利が絡むだけに自分だけが花坂爺さんのような(馬鹿の別称である)お人好しなことをやっていれば、ふと気が付けば庇を貸して母屋を盗られて何もかもなくしてしまうこともまたさほど珍しくないわけです。

 今日と同じような明日がやってくる保障なんてものは実はどこにも無く、戦後からここまでは亜米利加が有償で代行していた部分が大きかったが故に、周辺諸国の大半が兵役を国民に対して義務化している中で日本の若い衆は自らが志願しない限り兵役や軍事訓練と無縁な人生を謳歌できていただけのことで、亜米利加が、”あ、なんかもうめんどくさくなったし、金もかかるし、軍人が亜米利加国外で死ぬと世論が五月蠅いし、基本的に日本が自分たちで対応しなさいな”と言い出せば、嫌でも対応を迫られることになるわけで、そうした変化の兆候は既に出ているわけです。

 そもそも、日本の右傾化というか憲法改正も伴う軍事力強化が日本の一方的なものならば亜米利加が掣肘しないわけがなく、(中略)していることは馬鹿でもわかりそうなものですが、いかんせん、”ゆとり~君”世代に限らず日本人のあらゆる世代で(中略)が足りていませんな。

 日本で戦前に発生したクーデタの実行犯の多くは現役の軍人で、現場を掌握する若手の将校が主軸だったようですが、軍人に限らず、放置しておけば自分に銃弾を撃ちん込んだり、致死性の有害物質を散布する可能性が高いような集団が事件を起こせば、一般庶民とは法律上も区別して対応することは、命を狙われる側の為政者としては当然の対応でありまともな反応ではないかと。

 もちろん、事件が事件だったこともあって、いわゆる”超法規的な措置”や”不可解な処理や拡大解釈”が横行しているのも戦前のクーデタの後処理の特徴ですし、法律で保存年限が決められている公文書の類を含めて肝心の裁判資料などが”見あたらない”ことがあったり、ピンポイントで”紛失している”ことが珍しく無く、不思議なくらい、亡失率が高くなっていることは比較的知られた話になります。

 また、2.26事件の際の西園寺公のように、事前に情報が提供されたことで致命的なトラブルの圏外へ移動して難を逃れていると解釈できる幾人かの事例を見ていると、少なくとも、戦前の2つのクーデター事件の背景は学校の歴史の授業でさらっと流されるほどシンプルな構造では無かったのではなかろうか?

 ちなみに、5.15事件では武装した大日本帝国海軍の青年将校たちが総理大臣官邸などに乱入し、現役の内閣総理大臣であった犬養毅を殺害しているのですが、これは基本戦略として、東京をクーデターで混乱させて国政を麻痺させることで戒厳令を施行せざるを得ない状況に陥れ、クーデタを支持する政治家や軍人などで軍閥内閣を樹立して国家改造を行う ・・・といったシナリオがあったというのが定説になっています。


 事件が鎮圧された後、政友会は総裁を暗殺されたことにもなったわけですが、すぐに鈴木喜三郎を総裁として選出し、政権担当を継承する姿勢を示していたのですが、後継首相の選定は難航することになり、天皇から後継者推薦の下命が下された元老の西園寺公望が調停しています。

 その際、昭和天皇は鈴木貫太郎侍従長を通じて、協力内閣か単独内閣かは問わず、人格の立派な者を選びファッショに近いものは絶対に不可といった趣旨の希望を伝えられているのですが、クーデタの当事者である軍が政党内閣には反対したことで西園寺が早々に政党内閣を断念し、軍を抑えるために元・海軍大将で穏健派の斎藤実を次期首相として奏薦し、斎藤は民政と政友の両党に協力を要請して挙国一致内閣を組織しています。

 西園寺はこうした対応を事態が落ち着くまでの一時の便法で将来的に憲政の常道である政党内閣に戻すことを考えていた節もありますが、大正デモクラシーで知られる一連の流れの下で8年間続いた政党内閣はここに崩壊し、結果的に第二次大戦で無条件降伏するまで続くことになります。

 犬養は中華民国の関係者との間のパイプが太く、日本は大陸から撤退すべきであるというのが時論だったことでも海外に知られていた政治家で、その犬養が軍事クーデタで暗殺されていたことが、後に満州国(1932~1945)を国際連盟に加盟している国々が承認するかどうかを決める際に影響を与えたという指摘もあります。

 これを書いている時点で、不思議なくらい中国への進出に邁進している日本の経済界の動きを見ていると、中国利権を求めて大陸に殺到していた戦前の日本の経済界の動きと重なる気がしてならないのですが気のせいか?

 その後、”昭和維新・尊皇討奸”といったスローガンを掲げた2.26事件が陸軍の青年将校達によって起こるのですが、彼等の場合は、政治の腐敗と庶民の困窮は天皇を取り巻く奸臣である、元老、重臣、軍閥、官僚などの特権階級に起因し、彼等を除去して天皇親政とすることで、政治腐敗、政財界の癒着、農村の困窮といった当時の日本が直面していた問題を一挙に解決できると考えたようです。

 ちなみに、犬養毅総理を殺害した海軍青年将校達でさえ禁錮15年以下の刑しか受けなかったことも、軍事テロの再発の原因になったという説がありますが、殺害されたのが総理大臣ではなく高橋是清・蔵相で、襲撃を受けた岡田・総理、鈴木・侍従長、斉藤・内大臣など、いずれも海軍大将や海軍軍政の大物といった海軍関係者だったことから、陸軍内部の派閥争いも絡む計算されたクーデタという説もあり、事の真偽がいずれだったとしても事件の後、クーデタの実行主体となった陸軍の中の皇道派の勢力は壊滅状態になり、東条英機が率いていた統制派の天下になった上で政治的発言力も強くなり、陸軍と海軍との間の軋轢は根深くなっています。

 実際に1932、1936、1995年の3回ほど東京で、比較的大規模なクーデターやテロが起こった実績があるだけに、それがどういった形になるかは分かりませんが、ある朝目が覚めたら4回目以降の騒動が起こっていてもさほど驚きません。

(2013/04/24)





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Last updated  2013.05.10 09:21:27
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