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2014.05.12
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カテゴリ:食品
一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第884話 「煮しめ菓子」

 歴史をあれこれ調べていると、ふと、日本語はどのくらいの期間が過ぎると”古文”と化して後の世の人たちに通じなくなるのか?という素朴な疑問が頭をもたげてくることがあるのですが、”菓子”という”そんなもの間違えようがないじゃあないですか ・・・”と言われかねない言葉にしても、実は時代によってかなり変化していたりします。

 ”甘ければ菓子なんじゃないの?”という考え方もあるのですが、水菓子、木菓子あたりから日本の菓子の歴史が始まり、砂糖の渡来とほぼ同時期に唐菓子が加わったことで和菓子という概念が生まれたと考えられるのですが、室町時代の末頃に南蛮貿易が始まると南蛮菓子という分野も一つのカテゴリーとなっていきます。 

 まあ、このあたりまでは糖度というか甘みに差があるものの”甘い”という共通項で”菓子”を括れなくもないのですが、精製した上白糖の類は中国からの貴重な輸入品であり続けていた時代でもあり、砂糖そのものが滋養強壮など”薬効”のある薬の一種とされ江戸時代まで薬種問屋でも売られる一品だったりします。

 砂糖に薬効があるとされていたことから、砂糖を使った菓子は滋養強壮の養生食品や長寿食という捉え方もされ、高齢化したり病気を患った殿様などへ差し入れる妙薬の類もまた”菓子”の一つの側面だったわけです。

 この、”甘みのあるものを薬や滋養食の一種と考える”というのは別に日本だけに見られる発想ではなく、高山や氷河などの万年氷が比較的簡単に利用できる地域だと、カキ氷を作ってメロンなどの絞り汁をそこに加えた”秘薬”で王侯貴族の体調不良が治った話などがあるのですが、”それは、今だとデザートかお菓子に区分されるシャーベットの類だし、日ごろの不摂生や偏った食生活でビタミンCあたりが不足して体調を崩していたのが補われて体調が回復したんじゃないの?”と勘ぐるなという方が無理かもしれません(笑)。

 もちろんというか、このシャーベットと大差の無い”秘薬”は万能薬ではなかったようで、せっせと食べさせても回復せず死亡することもあったというか、どうも薬としてより、甘くて冷たくて美味しいというあたりから氷菓子として残ったようです。

 もっと怪しげな話としては、エリザベス一世の頃の”歯磨き剤”の成分で、蜂蜜やら砂糖やらを加えて”口あたりを良く”していたためか、虫歯予防の効能は期待できなかったというか、英吉利に限らずその手の歯磨き剤を愛用する王侯貴族は虫歯に悩まされ続けたようです。

 もちろん、こうした薬は、当時の名医というか日本風に言えばお抱えの御殿医の類が調合していたわけですから、”医学”という言葉もまた、時代とともに内容が変わっているというか変わり続けている言葉の一つと言えます。

 話を戻すと、江戸時代の中頃くらいに砂糖の国産化が進み、”和三盆”が普及していくのですが、三盆というのは白糖の等級で最高級品を意味していて、それを国産化したことで”和(国)”+”三盆”という合成語が誕生したと言えます。

 江戸時代の初めくらいから、奄美や琉球でサトウキビから抽出した黒糖が大阪市場に出回るようになっていたのですが、この黒糖を現地で精白することは無かったようで、和三盆の主産地は徳島の阿波三盆や香川の讃岐三盆などで知られる四国に限られたまま幕末を迎えることになります。

 世の中が幕末から明治に移り変わる頃に、第二次南蛮菓子文化の流入というか、本格的な洋菓子の流入が始まるのですが、明治に入って”氷”を北海道から東京まで船で輸送したり、製氷装置が伝来したことでカキ氷などの氷菓子というジャンルや、アイスクリーム(後に、製品の乳脂肪の含有量などでアイスクリーム、ラクトアイス、アイスミルクなどに細分される)といった、本格的に冷たい菓子を庶民も口にできるようになっていきます。

 ただし、平安時代に既に氷室から氷を京都の御所まで運んできて、それを掻いてカキ氷を造り、そこに甘蔓などの甘みのある汁をかけたものを宮中の人たちは食べていたようで、清少納言の枕草子の中にもそういった記述があることが知られていますし、江戸時代に夏場に富士の氷窟や氷室から馬を使って氷を江戸城まで運んで利用したこともまた比較的知られた話になりますので、日本におけるカキ氷の類の歴史は社会の上層部と下々の庶民には千年を越える溝があったわけです。

 もちろん、今となっては、江戸時代だと殿様でも夏場に食することが難しかったカキ氷や、存在そのものが知られていなかったアイスクリームの類を、100円を切る価格帯のものもあるわけですから、貧乏人でも食することができる時代になっていることは御存知の通り。

 ま、こういった話はこれまでにも延々と書いてきた話ですが、菓子の名前がついていながらも”う~ん”と唸って取り上げずにいなかったのが煮しめ菓子というジャンルの菓子で、よほどマニアックな人か暇な人でもなければ存在そのものを知らないカテゴリーかもしれません(しみじみ)。

 ざっくり書くと、典型的な煮しめ菓子といえば”おでん”のことになるのですが、この話をすると(今のところ)十人が十人、日ごろの行いが悪いのか”また怪しげな話ですよね~”という反応をするのがなんですが(笑)。

 ”おでん”のルーツが室町時代くらいに普及が始まった”豆腐の田楽(でんがく)”に由来し、田楽そのものは、田植えのときなどに笛や太鼓ではやしながら踊るにぎやかしの踊りの田楽舞とでもいったことになりますが、そのあたりの話は学校の歴史の授業でも(たぶん)教わる話なので詳細は略します。

 この田楽踊りの類は、一部地域ではプロ化していったようですが、踊念仏系というか出雲阿国などの歌舞伎の系譜に飲み込まれたのか潰されたのか、正月の角づけなどに吸収されたのか、いずれにしてもいつの間にかプロの演芸としては姿を消してしまったようで、少なくとも江戸時代になるまでにほぼ絶えたようです ・・・ 例によって正確な全国資料がある話ではありませんからアバウトな話にはなりますが。

 で、食べるほうの”田楽”という名前は江戸時代に入っても残っていたのですが、味噌を塗った豆腐を串刺しにして火であぶって食べた豆腐田楽は、大量生産する場合に味噌仕立ての鍋で煮られるようになり、豆腐だけでなく蒟蒻が早い時期に加わったと考えられていますが、いわゆる”煮しめ”ではなく”おでん”という別称で呼ばれた理由は、やはり(竹)串を刺しその串を手で持って食べるスタイルだったためかなと。

 少し細かく書くと、江戸の寛永の頃の具体的な”おでん”のタネとしては、鯛や河豚などの魚や鱶(フカ。サメのこと。)の肉でも、猪や狸などの獣の肉でも、どうも豆腐や蒟蒻の類でなくても、串にさして味噌を塗って焼いたり煮たりしたものは”おでん”と認識されていたようです。

 江戸の町で、前述したように味噌仕立ての鍋で煮るスタイルの方が定番化するのは江戸時代も半ばの頃の話になるのですが、この場合も、道端の屋台で商う場合に串にさした状態で煮た方がなにかと都合がよかったようですが、直火で炙るのではなく鍋で煮るようになったことで里芋に串を刺して煮たものもネタに加わるようになるのですが、今となっては里芋が姿を消して馬鈴薯が加わっていることが多いのは御存知の通り。

 屋台だけでなく、店舗で”おでん”を食べさせる店も江戸時代の間に増えていったようですが、天保の頃には一串の相場がだいたい4文で定着したようで、いわゆる”四文屋”の中には”おでん”を主力商品として商う人も珍しくなかったようですが、この一串が四文という価格設定が煮しめ菓子と呼ばれた理由なのかもしれません。

 天保の頃の四文屋で商われていた”おでん”のタネとしては、豆腐、蒟蒻という定番はもちろん健在で、里芋や大根などが加わっているのですが、魚の切り身の類ではなくハンペンや竹輪が登場していますから練り物系にシフトしたようですし、鳥や獣の肉の類は姿を消しています。

 別の視点では、上戸は濁酒あたりを片手に”おでん”を食べ、下戸は御飯のオカズとして”おでん”を食べるようにもなっていったのですが、江戸の”おでん”文化が東京へと移り変わった明治に入ると断絶してしまい、”おでん”や”関東炊き”の名称で関西や名古屋では残り、大正時代というか、関東大震災の被災者への炊き出しから”おでん”が東京でも息を吹き返すことになったのですが、そのあたりの話もまた”おでん”の話で散々書いた話なので詳細は略します(笑)。

 まあ、素直に考えると、江戸時代が終わったあたりで”おでん”を”煮しめ菓子”と呼ぶことも途絶えたと考えられ、大正時代に東京の街で再度の定番化が生じた頃には、”煮しめ菓子といわれてもねえ?”という人の方が多数派になっていたのかもしれません。

 江戸の屋台文化は、明暦の大火など幾度かの大火の経験を経て、火事の火元になりうる外食産業など火の取り扱いに関する取締りが厳しくなってから発達したという説もあり、蕎麦や天麩羅の屋台などが川岸というか橋の側で営業しているあたりでも一定の説得力があるのですが、ただ、この説の場合、なぜ上方では江戸ほどの屋台の隆盛が生じなかったのか?が説明できません。

 ある意味で江戸時代の屋台が出揃った天明の頃の江戸の屋台の商い品としては、天麩羅、おでん、寿司、鰻の蒲焼、麦飯といった横綱級の定番が揃っているだけでなく、以前に少し触れた焼き芋やゆで卵も屋台で売られていて、だいたい一品が(例の江戸の定額である)4文ということが多かったようです。

 あれこれ考えていると、団子などの身近な菓子と似た様な価格帯で売られていて、オカズにはなっても主食ではなかったから菓子扱いだったのか?という気もするのですが、まあ、確かなこととして言えるのは、江戸時代に”おでん”が”煮しめ菓子”と呼ばれていたことがあるということだけですが、怪しい話ですからその程度でかまわないといえばかまわない話かなと(大笑)。

初出:一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第884話 (2013/12/02)





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Last updated  2014.05.12 05:32:44
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