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2014.09.18
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カテゴリ:怪異談・奇談
一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第938話「灯りの怪異」

 江戸時代の夜が暗かったのは確かな話というか、昭和の始め頃まで”夜は暗い”としたものですが、明治に入って電灯が普及していくのに比例して夜の闇が駆逐されて怪異が消えていく速度が早くなったのもまた確かな話かなと。

 私としては、日の光が燦々と降り注いでいる日中の路上で幽霊に遭遇するよりも、闇の中で幽霊に遭遇した方が心臓に負担がかかりやすいと考えてはいますが、幽霊が出る出ないは昼間だろうが夜間だろうが大差が無いようで、昼の日中に生きている人間と大差の無い幽霊に遭遇したという話も珍しくなかったりします。

 まあ、幽霊なんぞに遭遇せずに人生を終えた方が幸せだとも思うのですが、なぜか”幽霊をみてみたい”とか”幽霊に遭遇してみたい”という(潜在的なものを含めて)欲求を抱えている暇人は意外と多いというか静かな多数派(いわゆる”サイレントマジョリティ”ですな)を形成しているようですし、そうした顧客のニーズを満たすべく、演劇や映画、TVなどにおける演出の行き着いた先が暗闇の怪異ということになるのかもしれません。

 その辺り、特にエアコンの無い時代、涼を求めて夜通しの百物語の怪談会が江戸時代の末頃には夏の定番になっていったくらい巷間に怪異談の語り手が増えて怖がらせ方も研究されているわけですが、私の座右の銘の一つは”現実の怪異に近寄らない”ですから、いずれにしても現実世界の実体験にこだわらず安全な場所でぬくぬくと楽しむ怪異談収集程度にとどめておきたいもんだなと(笑)。

* 実際、怪異談などを見聞きして背筋が寒くなったときには2~3度くらい体温が低下していることが珍しく無いそうな。

 そういえば、父の葬儀の際に久々に実家に帰って連泊したとき、”あれ?こんなに田舎の夜って暗くて静かだったっけ?”と過疎化の進展を実感したことがあるのですが、高校に進学したときに家を出た頃だと、いくら田舎とは言っても夜の9時くらいまではそこかしこから家族の会話が聞こえてきたり家庭用カラオケをがなる声などが聞こえ、草野球などを楽しんでいるナイター照明の灯りや各家庭の窓の明かりも、さすがに9時頃だとあちこちに灯っていたものでしたが、8時を過ぎた辺りで既に静寂の闇の中に集落が沈みこみ灯りもほとんど消えていたのでした。

 それでも昔の感覚で、茶葉を含む食料品などの買い置きがほとんど無かったこともあったのですが、9時少し過ぎた辺りのこと”あ~、確かあのあたりに清涼飲料水の自動販売機があったよなあ?”と買出しに出かけたのですが、家の門を出たところであまりの真っ暗さに引き返して懐中電灯を探したのは私です(笑)。

 15の歳まで生まれ育った生まれ故郷ですし、建物や道路などはほとんど位置関係が変わっていませんでしたから文字通り”目をつむっていても歩き回れる”ものの、”夜の闇が怖い”と感じるところまで暗くなっていたわけですが、その意味でも故郷というのは見知った人や自分の知っている(いた)生活環境とセットになっているものなんだなと妙に納得しました。

 もっとも、そんな夜の深い闇の中でも、11~12時頃に家の前の道(古くからの読者は御存知の”死者の大通り”)を集団墓地のある方向へジャリジャリと草履で歩く足音が歩いて去っていったことは言うまでもありますまい ・・・ ある意味で馴染の音が健在だったことには安心しましたが(しみじみ)。

 それはそれとして、電灯どころか大半の日本人がランプの類も知らなかった江戸時代の夜間照明はどうなっていたのか?素朴な疑問として夜にトイレに行きたくなったときは無事に用が足せていたのか?という素朴な疑問を持っていたのですが、さすがに江戸時代くらいになると庶民の家でも行灯(あんどん)を持つ家が増えていったようですし、一般家庭の行灯はもって字のごとく、下げて歩いて行くことができるランプというかランタン的な役割もこなしていたようです。

 ちなみに、行灯の光源は油に灯心を浸したものに火をつけたもので明るさは使われている油の種類は質、灯心の太さなどにも左右されるものの5ワット程度の電灯より暗く”ようです。

 用いられる油に関しては、江戸の中頃くらいまでは鰯や鰊(にしん)から採れる魚油が主流で、それ故に化け猫騒動でしばしば化け猫が行灯の油を夜な夜な舐める逸話が出来上がったという説もあるのですが、もちろんというか魚油は燃やしたときに独特なにおいがしますしさほど明るくなく、入手しやすく安価なのがとりえだったと書いていいようです。

 そんな油事情が変わってきたのが、菜種栽培が広まって菜種油が安価に入手できるようになってきてからになるのですが、江戸時代の末の頃にはほぼ切り替わっていたようですし、魚油から菜種油に切り替わって明るさが増したことで夜なべ仕事の効率があがり、夜更けまで内職などをするようになったことで”1日3食”が広まっていったという話もあります。

 つまり、魚油が主流だった頃には、宵の五つ(時期にもよりますが概ね午後8時頃)頃までには灯りを落としてほとんどの人が寝ていたのが2時間ほど後倒しになって9~10時頃に寝る人が増えると、夕御飯ではなく晩御飯へと最後の食事の時間を遅らせないと小腹が空いて眠れない人もまた増えていったということです(笑)。

 そうなると、朝と夕方の二食よりも、朝、昼、晩の三食のスタイルにした方が何かと都合がよかったようですが、もちろん農業生産や全国の物流網などの効率が向上して物品が次第に潤沢に出回るようになっていったこともありますし、菜種油にしても当初の”油1升と米二升”と言われた高値のままだと庶民にまで普及したかどうか微妙な気が(私は)します。

 まあ、江戸時代は1日に平均的な男性で米を4~5合、女性で3~4合を食べていたとされていますし、食べる回数が増えても消費量がそれに比例して増加していませんから、一度に男性で2~3合程度がつんと食べていたのが1合半~2合くらいになって主に食事の回数が増えたと考えておくといいようです。

 そういった歴史の経緯を知っていると、”1日は3食がベストで、特に朝ごはんをしっかり食べるべし!”とかいった不思議なくらい上から目線の主張を鼻で笑うようになり(笑)、”生活スタイルの応じて食事の頻度(回数)は調整すべきで、夜に大量に食べる人は朝を抜くか量を控えて胃や腸などへの負担を調整し、昼も自分の体に聞いて量と質を調整すべし!”とか言い出すのですが、大前提として”リスクを承知で好きなものを飲み食いして早死にするとしても、それはそれでよい人生”とも口走っていることは御存知の通り(大笑)。

 ちなみに、蕎麦や握り寿司など屋台で食べる外食系の軽食の類が定着していくのも1日が3食になった頃からというか、”(従来の)2食+小腹を満たす途中の1食”とでもいった社会と食生活の変化に対応しての変化だったようですし、屋台が普及した後も、がっつりとした食事は屋台よりも縄のれんを含む定食屋の類で済ますか(懐具合によっては)自炊していたと考えるとわかりやすいかなと。

 それはそれとして、総じて江戸っ子たちが宵っ張りとなり、日が暮れてから屋台で”蕎麦でも一杯すすって小腹を満たしてから帰って寝ようか?”といった生活がさほど珍しく無くなってくると、それに応じて怪異談の類も進化していったようですし、その典型としては以前に少し”本所七不思議”の回などで取り上げたことがある”灯りなし蕎麦(燈無蕎麦)”が知られるようになっていきます。

 火事を恐れた江戸の町では、飲食店であっても屋敷内で火を使って調理をすることには(堀の近くとか)立地条件を含めてかなり制限が厳しく、蕎麦の屋台が珍しく無かったのも、屋台なら火が燃え移っても打ち壊したり川や堀などに投げ込むことで比較的消火が容易だったことがあるのですが、営業時間に関してはその町ごとの特徴でかなりの差があったようです。

 つまり、毎晩のように博打場が開帳されていた武家の下屋敷の中元部屋が多いような地域だと(蕎麦に限らず)夜間営業の方が実入りが良くなるだけに主となり、大工仕事や土木作業など日中に稼ぎが多くなる地域だと昼間営業が主となるような屋台や店が増えやすいということで、町と町の間は時間によって木戸が閉まって出入りができなくなっていましたが、町の中の営業時間は意外と地域のニーズに応えていたわけです。

 ちなみに、本所七不思議の”灯りなし蕎麦”の場合は、寒い冬の頃に本所南の割下水のあたりを歩いていて二八蕎麦の屋台を見かけて立ち寄るあたりから始まる話が有名で、”温かな蕎麦でも食べて温まってから帰って寝よう”と思って既に灯りが落ちている屋台に近づいてみると、余りに寒くて人通りも少ないので早仕舞いにかかっていたのか屋台の灯りは既に消えていて店主もいなかったそうです。

 しかしながら、屋台の内は暖かで火種が残ってお湯も沸いていたので頼み込めば蕎麦の一杯くらいは作ってもらえるだろうと思ったそうで、しばらく待ってみたそうですが、その際、灯りのついていない屋台はさすがに不気味で用心も悪いだろうと考えて行灯に灯りをつけようとするのですが、なぜか何度試しても行灯に火がついてもすぐに消えてしまいます。

 灯りがつかない上に、しばらく待っても店主が帰ってくる気配が無かったので、あきらめて帰ってしまうのですが、その後、この客は何かと不幸に見舞われたそうですし、”実は私も ・・・”と同じような経験をする人が増えていったのか、”灯りの灯っていない蕎麦の屋台に立ち寄ってうかつに行灯に火を燈そうとすると凶事に見舞われる”という噂が飛び交うようになり、本所七不思議にめでたく登録された ・・・ ようです(笑)。

 これとは真逆の、やはり人気の無い屋台に灯りだけが一晩中灯り続けていて、こちらも立ち寄ってしまうと災厄に見舞われるという”消えずの行灯”の話も定番となっていったようですが、こちらの方は季節指定が無いようですが、この手の怪異の主犯としては狸や狢の類ではないか?と考える人が多かったようです。

 そして、当たり前といえば当たり前ですが、夜間に行灯を燈して営業する屋台の蕎麦屋が存在しない地方というか地域では、燈無蕎麦の類の怪異談が成立せず、やはり本所七不思議に本所出村町の辺りの話として含まれる”送り提灯”のように、先行して移動している提灯の灯りを目印に夜道を急いでも、近づいたり灯りがしばらく見えなくなったりを繰り返すものの、いつまでたっても追いつくことができず、はっと気が付くと道を外れて薄野原の真ん中を歩いていた ・・・ といった話が野外の灯り絡みの怪異談になります。

 ま、時代が下がって蕎麦の屋台が街角から姿を消し、提灯を使う人も皆無に近くなっていくと、この手の話は清涼飲料水の自動販売機などが担うようになっていくのですが、その手の現代の怪異談はさんざんにしてきましたから今回はここまで。

(2014/09/18)





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Last updated  2014.09.19 08:03:11
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