2613506 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

一夢庵別館

一夢庵別館

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Keyword Search

▼キーワード検索

Profile

K.Mark

K.Mark

Rakuten Card

Calendar

Favorite Blog

まだ登録されていません

Comments

背番号のないエース0829@ あだち充 「タッチ名言集 ~ 西村勇 ~ 」に、上記…
背番号のないエース0829@ カトリック 「聖バレンタインデー」に上記の内容につ…
はうリング@ 困ったものです。 はじめまして。 いつも、興味深く拝見さ…
pintu7923@ こんにちは。  掲載が停止したときには、今回の事態の…

Freepage List

Headline News

2019.10.31
XML
カテゴリ:神秘学
オはオタクのオ 第0062回 人相あれこれ

 偶に、”変なところでイライラしていることがありますよね?”と常連さんたちに指摘されることがあるのですが(笑)、付き合いが長くなるとそのイライラしている内容を説明している途中で”で、やっぱり今回も諸説ありますなんですか?”と切り返されるのことも日常における定番の光景だったりします(大笑)。

 長らくイライラしている定番ネタとしては”それは魔法陣じゃなくて魔法円だっつうの!”とか”天婦羅はネタによっては天つゆよりソースの方が合う”とか”ちくわぶはおでんを駄目にする”とか”それは人相じゃなくて顔相ですが?”といった辺りか?なと。

 魔法円問題(笑)は、ラノベを含む意外と真面目な小説や有名な作家さんの作品でも頻発している問題で、魔法を使った抗争を描いているシーンで”魔法陣が描かれた”といった表現が定番ですが、魔法の基本的な知識が不足している人がノリと勢いでやらかしているであろう典型事例ではないかと ・・・ 同じカテゴリーだと”氷点下三千度”といった表現の類にもイラっとしてますが(笑)。

 ちなみに、魔法陣というのは特定のパターンで数字が配置されていて、特定の方法で計算すると特徴的な結果が生じる代物のことで、あっさり言えば魔法とは関係なく、まるで魔法がかかっているかのような数字配列とでもいったことになり、魔法円というのはある意味で魔法や魔術、結界の基本的な知識と不可分の図形ということになります。

 魔法円というくらいですから、”特定の魔法を発動したり悪魔を呼び出す不思議な円形の模様”といった
使われ方を本来はするのですが、典型的な誤用としては”小さく光の魔法円(あるいは”光の魔法陣”といった重箱誤用も頻発中)を背後に回した左手の人差し指だけで空中に描くと同時に目がくらむような光が ・・・”とかいった表現が目に付きます。

 魔法円の起源に関しては、中東系というか古代バビロニアあたりの魔法がこれを書いている時点では遡れる最古の起源ですが、後に北上して遅くても十字軍の頃には西洋魔法でも基本知識として定番となり、古代ケルト系といった欧羅巴界隈の土着魔法とは、本来は、異なる技術というか知識の体系かなと。

 そもそもは、魔法の呪文を唱えながら一定の儀式を行って特定の悪魔(本来は特定の神や神の使徒を呼び出すためのノウハウが起源と推察される)を呼び出す際に、呼び出した悪魔に魔法使いが襲われないための結界ですから、儀式の場を魔法的に整えた後、地面に自分を中心点として目的に応じた魔法円を描いて結界を張ると同時に呼び出す相手の名前も一定のパターンで刻むことになります。

 なぜ魔法円と魔法陣の混同というか、文章の流れから判断すると誤用が頻発しているのか?と考察すると、魔法や魔術の知識がTVアニメや乳幼児を対象にした絵本程度の素人がノリと勢いでやらかしているとしか思えないのですが(笑)、日本の場合、比較的目にすることが多い魔法の儀式というか神事である”地鎮祭”が四角い結界の中で行われることが多いことも影響していると考えられます。

 ちなみに、円の中で行われる神事だと地鎮祭より相撲の土俵の方が馴染みが深く目にしているのではないか?と考える人もおいででしょうが、円い相撲の土俵が登場するのは室町時代の末というか戦国時代の末あたりに土嚢を使って短時間で造る軍用陣地や軍事用施設の技術が普及して以降の話になります。

 それ以前というかそもそもの相撲は正方形の空間を人垣で形成した中で行われるのが定番で、鎌倉時代だと四辻を封鎖して辻の中心に陣を形成して(賭博の絡むことが多かった)辻相撲をやらかしていたようで鎌倉幕府が法律で違法行為として取り締まりに乗り出していて、取り締まりが強化されて簡単に辻相撲を開くことが難しくなってくると幕府でも取り締まりの手が出しにくい寺社仏閣の敷地内に活路を求めるようになっていったようです。

 そうした人垣で形成する四角い人方屋の類としては、ブルースリーの映画”燃えよドラゴン”の格闘シーンで形成されている陣形がビジュアル的に分かりやすいですが、ボクシングなどのリングも四角いことを考えると洋の東西を問わず人が格闘する際に一定の公平性を持たせるために工夫すると辿り着く形なのかもしれません。

 ただ、旧約聖書などにみられるように神の使徒などとレスリング(?)をする一種の神事として格闘したり、紀元前の戦場で命のやり取りをしながら格闘術が確立していった時代を経て、古代ローマあたりで格闘に賭け事や娯楽の要素が加味されて(コロセウムにおける)定番の興行になっていくと、地面に四角い空間を形成しただけだと観客から不満が出るようになっていくのも洋の東西に共通した現象だったりします。

 比較的簡単に設営できる、競技者と観戦者が仕切られておらず競技が同じ高さで行われる空間の問題は大きく2つあり、一つは後ろの方の観客ほど人垣に視界を遮られて見えにくくなるため興業の規模を大きくしにくいこと、もう一つは賭けた相手や贔屓にしている選手が負けそうになったとき観客が直接手を出して勝敗に影響が出かねないといったあたりかなと。

 かくして、土を盛り上げたり石を敷いて”台”を造って競技者を一段高いところで競わせて観客は座って観戦するという、ファッションショーなどでも定番のランウエイ方式とか、古代ローマの円形競技場(コロセウム)や野外(オペラ系)演劇場とか甲子園球場など舞台をすり鉢状ないし半すり鉢状に建設し競技者はすり鉢の底に観客は壁面に段差を付けて座ることで、競技者と観客との間に物理的な距離を確保して干渉を防ぐと同時に視界を確保した国や地域、賭博の胴元を含む競技団体が多くなっていったわけです。

 もっとも、相撲の土俵が俵型の土嚢を埋め込んで円を形成し、二か所に徳俵として出っ張りを付けた有力な原因が”降雨と排水”のためだったり、これを書いている時点で大相撲の本場所の土俵の上に小さな屋根が宙吊りになっている理由が本来は屋根を支える柱があったけれどTV中継時に柱があると見づらくて邪魔だったからといった具合に、時代が下がれば下がるほど神事や魔法由来の仕掛けは簡略化されることが多く、興行優先の魔改造が進むことがありますので、深く考えるだけ無駄なことも増えていくようです。

 天婦羅ソース問題は、長らく追跡調査を行ってサンプルを増やしているのですが(笑)、日本でテンプラというと、魚肉のすり身に塩や繋ぎを加えて団子状ないし板状にした練り物を揚げる薩摩揚げ(サツマアゲ)の系譜、小麦粉などを水溶きした衣をつけてあげるテンプラの系譜、奈良時代には中国から伝来していた米粉などをまぶして油で揚げる(精進料理などにも採用されている調理法の)串カツ風のテンプラの系譜の三種類に大別することができます。

 水溶きした小麦粉の衣をつけて揚げる系譜のテンプラの起源としては安土桃山時代末に火縄銃が伝来して葡萄牙あたりから始まった南蛮貿易に付随して広まった西洋料理とする説が有力で、それ以前の日本の料理に大量の食用油で食材を一気に揚げる料理法というのは存在し無かったと書いてもいいくらい限定的な料理法だったようです。

 が、豊臣秀吉の暗殺に失敗して処刑されたという話もある石川五右衛門が京都の三条河原で息子ともども”釜茹で”で処刑された際には、釜茹でといいながら水で煮られたのではなく釜で熱せられた油に漬け込まれて茹でられたのは有名な史実ですから、織豊時代に普及が始まり戦乱の世が治まって食用油の増産と普及が可能になった江戸時代に入って庶民階級にも急速に広まっていった調理技術と書いてもいいのかもしれません。

 というか、徳川家康の死因として”鯛のテンプラを食べて(食中毒かなにかで)死んだ”という俗説が知られているのですが、当時のというか家康が食べたとされるテンプラに使われていた食用油はカヤの油だったようで、一説には徳川家康から(当時の日本最大の国際貿易港であり、最新の欧羅巴経由の技術や知識が伝来していた)堺の界隈でちかごろ流行っていることを問われた千利休が魚のテンプラを教えたことで、家康が試食して気に入ったという話もあります。

 サツマアゲや江戸系の”天婦羅”の語源としてカトリック系の宣教師が室町時代の末に調理法を伝えたポルトガル語のテンペーロ説が本命とされているのですが、衣をつけて魚などを揚げる料理といえばフリッターの方が近いんじゃね?といった指摘もあり、調べれば調べるほど”諸説あります”と書きたくなるのですが、”てんぷら”に漢字で”天婦羅”と当て字をしたのが江戸の山東京伝の兄だったというのは定説だったりします。

 上方(大阪)から逐電(駆け落ち)してきた夫婦が江戸の街で何か商売をして食っていこうと決心した際、当時の上方と江戸ではテンプラのネタに大きな違いがあることに着目して上方では定番だったネタを加えてテンプラの屋台を出し、その屋台に”天婦羅”と書いたら大ヒットしてまねる人というか屋台が続出し、それ以降の江戸のテンプラの定番の様式となった ・・・ ま、長くなりますので詳しくは”怪しい話”でも書いた諸説あります話の一つですが(笑)。

 整理すると奈良時代あたりに中国から伝来した米粉をまぶした食材を油で揚げる調理法が精進料理などでは定着したものの、食用油の生産規模が小さかったこともあって、煮たり焼いたり蒸したりする調理法ほどは広まらず、室町時代の末に南蛮貿易が本格化するとカトリック系宣教師によって西洋料理の揚げ物系調理法が伝来し、最先端の料理として急速に普及が始まった。

 江戸時代に入って世情が安定し、人口と農業生産が横ばいから増加に転じると食糧事情が好転し、食用油もゴマ油、椿油、菜種油など多様化しながら増産が進み、油が安価になると大量の油で食材を揚げる調理法が庶民階級にも広がっていくこととなるものの、揚げ物は火災のリスクを伴うこともあって、野外でも川や運河の岸、橋の近くといった場所で屋台で提供して広まっていくことになった。

 蕎麦やテンプラなど火を使う屋台の場合、屋台に火が燃え移っても川や運河などに投げ込めば大丈夫といった考えだったためか、人通りの多い橋のたもとから川沿い、運河沿いに屋台が並ぶ光景はこうして始まったと言えなくもないようで、一種の屋台村が形成されることで技術とサービスが発展し普及することとなり、いわゆる食い倒れの街として江戸の街が知られるようになっていった。

 屋台で食べやすくする工夫か、少量の油で手早く調理するための工夫かは定かではないものの、初期の米粉系衣のテンプラは現在の大阪系串カツのルーツになるようで、一口サイズに切った食材を串にさして衣をまぶして揚げ、特製の汁を客同士で共有して着けて(いわゆる二度漬け禁止)食するスタイルは上方においては江戸時代初期に既に成立していたようである。

 上方の食文化から江戸の食文化が確立されていく江戸時代中期以降になると、小麦粉の衣を付けて揚げる天婦羅が江戸のテンプラ業界で定番化していき、江戸時代の後半になると串で刺さず揚げると皿などの器に盛って醤油ベースの汁をかけて食するスタイルが定番化し、最終的に小麦粉主体の衣を着けてゴマ油や菜種油などで揚げ、皿に盛った状態で出されたものを天つゆをくぐらせて食するスタイルが正統派とされるようになっていき、屋台ではなく店舗で提供されるようになると同時にお座敷料理や専門店の料理としての高度化が進んだ。

 ちなみに、江戸界隈で江戸時代の中期あたりで醤油の地場生産が軌道に乗ったことで醤油を上方から船便で輸入する必要性が低下すると同時に、徳川吉宗が推奨した農業政策においてサトウキビの栽培が四国などで成功したこともあって、江戸の調味料として、”醤油+味醂+砂糖”といった植物系のベースと”鰹出し”の動物系のベースを組み合わせた江戸特融の醤油ベース調味料が定番化したことで、江戸の料理は上方と比べると”黒い”色調になっていった。

 わかりやすいところでは、西のうどんの汁は東のうどんの汁より醤油が少なめで(昆布が主体の)出汁が多めのためか透明度が相対的に高くなっている地域が、21世紀に入って讃岐うどんが全国制覇を達成するまでは顕著な特徴とは言い難くなってきているものの、比較的多く、天婦羅の天つゆで食する文化にしても塩や抹茶やユズ粉などを塩に加えた加工塩を適量振りかける程度で食するスタイルも京都~大阪界隈では珍しくない。

 が、なぜか関東でも関西でも否定されることが多いのが”天婦羅に(ウスターや中農といった)ソースをかけて食べるスタイルで、天つゆ、塩は肯定し、醤油に関してもまあ許容範囲という人が多数派とすれば、そうした多数派に”理解不能にして邪道”と主張されて愕然とする状況に陥ることを学習しようとせず懲りずに、私は、執拗に繰り返して現在に至っているわけだ(笑)。

 なにせ、”出来合いのテンプラを買って帰って食べようとしたら、天つゆはもちろん醤油も無かった場合、ソースがあればソースをかけて食べるんじゃないの?”と聞いてみても、多数派たちは信じられないものを見る目つきに代わって口を揃えて”理解不能にして邪道”であり”なんでそんなことをするかな~。自分(たち)は絶対にしないし、祖父母の世代も自分たちの周辺でも天婦羅をソースで食する人は皆無に近い云々と言われるわけだ ・・・ が、私はあえていいたい、”少なくとも蛸のテンプラに関してはウスターソースの方が美味い”し”他のネタでもソースが天つゆに劣っているとは思えない”と(・・・ 遠い目)。

 そうした食文化の対立ネタで冬になると鉄板の定番になっているのが、”ちくわぶ論争”で、西の方のおでんにちくわぶはそもそも入っていないし、あんな小麦粉の塊みたいなもののどこが美味いんだ!と私が主張すると、いわゆる”三代(以上)続いている江戸っ子”などから”おでんといえばちくわぶは定番でしょう。ちくわぶを入れないなんてどうかしている”という反論が上がってくるわけです。

 関西系の人に”ちくわぶ”とは何かを文字で解説すれば”外見はナルトで、食感と味は失敗した超太めのウドンにして小麦粉系グルテンの塊”としか書きようがなく、東京界隈では定番の和菓子の”すあま”に遭遇して”外見は魚練り製品の定番である板付そっくりなのに ・・・ なんで食感は餅で、味は甘いんだ?オカズと思って食べたら御菓子じゃね~か~”というときの理不尽感にどこか通じるところがある気がしないでもない。

 念のために書いておくと、ちくわぶの起源は京都界隈では定番の”毬麩(まりふ)”になるそうで、透明に近い出汁を張った椀に数個のカラフルな毬麩が浮かんでいる光景くらいしか思い浮かばない私にとって、おでんの出汁の中に横たわるちくわぶが毬麩の末裔とはとても思えないまま21世紀を迎えて今日に至っているのでした。

 逆に、関東のおでんネタでは定番で無く、入っていないのが当たり前と言われて愕然としたのが、牛筋や牛アキレス(腱)の串系で、ならば自分で造ろうとスーパーをめぐっても遭遇する頻度は低く、遭遇しても”これなら牛肉を素直に買った方が安いんじゃね?”という(グラムあたりで考えると)高級食材にカテゴライズされるあたりで ・・・ なんだかな~。

 大学生の頃、冬場に串にさして半分加工済みの牛筋や牛アキレス腱をスーパーなどで気軽に購入しておでん種にしていた頃は、貧乏学生でも(手間をかけると)大量かつ安価においしく頂けるおでん種の定番だったけに、思えば遠くに来たもんですな~。

 最後に、人相(にんそう)と顔相(がんそう)の混同でいらつく話になるのですが、眉毛の形や黒子の位置、唇の色や形状などなど顔の景色から運勢などを占うのが顔相で、人相というのは、顔祖だけでなく、手相や骨相など人の体全般の相から運勢を占うノウハウということになります。

 ゆえに、”君の顔に死相が出ている”といった表現に遭遇するたびに、”う~ん”とか思うことがあるのですが、いささかマニアックなこだわりになるのかもしれません。

 もっとも、日本で普及している手相占いの多数派は西洋魔術が起源となっている手相占いで、その西洋魔術起源の手相占いが確立したのが黄金の夜明けの頃だとすれば、その起源は印度に辿り着くことになり、そうなると印度占星術などの知識もあった方がいいのではないか?とかあれこれ考えてしまうのですが、少数派ながら中国起源の手相術が日本にも伝来していて掌紋術などがそこから分岐しているのですが、簡便に運勢を読むのなら印度系、簡便に体質や体調などを読むのなら中国系の手相術ということになるか?なと。

 まあ、そういった印度、西洋魔術、中国といった複数の手相占いのノウハウが流入し、さらにそこに独自の視点でローカライズが進んだ日本の場合、よく言えばハイブリット、悪く言えば中途半端なごちゃまぜ状態になっている上に、他の国や地域だと”占いに頼る前に親や兄弟姉妹といった肉親に相談したり、友人や学校の先生に相談するのが先じゃね?”ということになるようで、自分の親族より街角の占い師の御託を優先したり信じたりするのがよくわからないようです。

 とは言うものの、印度占星術のように、一定以上の収入ある家では子供が生まれるとその子の人生の流れを占い、そこから導かれる流れや特徴などを参考にしながら子供を育てていく行為が当たり前すぎて、自分たちが独特なことをしているといった自覚を持っていないのも現実ですし、ユダヤ系や華僑などでも子供が生まれると早い時期に運勢を占うと同時に本当の生年月日の類は可能な限り隠して役所に届け出ている生年月日は意識して変えておくのが当たり前としていた時代があったことを考えると、やっぱ世の中って”諸説あります”が意外と多いんじゃないか?と、爺的には思うのでした。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2019.10.31 16:28:41
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.