禅宗の無
禅宗系の書物を開くと、毎度のように「無」の字が出てきて、而も意味の使われ方に違和感を覚える。例えば『禅の本』の表紙には「無と空の境地に遊ぶ悟りの世界」という文字も添えられている。「空の境地」は解るが、「無の境地」には違和感が残る。「境地が無い」と云いたかったとは思わないが。書を開くと「禅の心」という大きな文字と、その脇に小さな文字で添えられた「あるがままに生き、あるがままに存在する」という解説らしき言葉。まさか「禅者は縁起の激流に流されるままに生きる」と云いたかったのでもあるまいに。更に似たようなページを数枚めくっていると、やはり大きな文字で「生死」とあり、小さな文字の解説らしき散文が添えられている。散文の後半には「生きるときは精一杯に生き、死ぬときは死ねばよい。あるがままに……禅はそう教える」とある。上記の「禅の心」に於ける添え書きと同義である。以上の三点からでは、一点目の「無と空の境地」を、充分には納得することができない。原始仏法の表記法と矛盾するからである。そこで、もっと適切な解説は無いものかと書をめくっていると、『絶対的な「無」こそが、禅の境地』という表現が見付かった。有無の無ではないということだ。それならそれでよいが、冒頭の「無と空の境地」という表現は、三点目の「生きるときは生き、死ぬときは死ねばよい。あるがままに……禅はそう教える」と同様に、有無の表現と関連しつつ一種の混乱を招くので、読み手としても注意深く読んだ方が良いと思うが、どうであろうか。