カテゴリ:思想
「自分の葬式は必ず神式で、ただし平岡家としての式は仏式でもよい」 「自分は文を捨てた。文人として死ぬのではない。あくまでも武人として死ぬのである から、その戒名にも必ず武の字を入れてもらいたい。文の字は不要である」 父君平岡梓氏は「彰武院文鑑公威居士」として折衷をはかったという。 築地本願寺での本葬で一万余の会葬者は整然と焼香し、敬虔な態度で献花したといわれる。 要人文化人をまじえない大衆色一色の立派な大衆葬が行われたことは三島の真に喜ぶところ であった。(平岡梓「倅・三島由紀夫」) 益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに 幾とせ耐へて今日の初霜 散るをいとふ世にも人にもさきがけて 散るこそ花と吹く小夜嵐 この三島由紀夫の辞世も評判がよくない。文人のものとしては拙劣といわれる。 「あの堂々たる陳腐、あの正面きっての月並みさは何事かを意味しており、人はまごころが なければ、これほど月並みに歌を作ることはできないはずである」(筑摩書房・東博) 「現代日本の恐るべき世相に義憤を感じ、文学より急回転して思想問題の本を死に物狂いで 読破し、その研究に没頭し、日増しにその速度を早め、畢竟言論のむなしさを痛感し、その たのむに足らざるを知り、文を捨て、武を採って止むに止まれずあの挙に出たと感ずる」 (平岡梓) 「……アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。 あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として 終るであろう」 「われわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義 でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにした憲法に 体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか」 有名な檄文である。まさに武人の面目躍如である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年08月25日 08時27分14秒
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