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カテゴリ:経営よもやま話
選択の基本形は、二者択一。生きるか死ぬか、勝つか負けるか、消すか付けるか、発展か衰退か、山か谷か、左か右か、上か下か、などなど。このことは、1にぜったいに、「どっちも」、ということは存在しない。2に、生きる方を選択もできるし死ぬことも選択できる。どちらでも選択できる。この2つを概念である。これを戦略という。「戦」専用の概念でないことを、ここで念押ししておきたい。
生きると決めたら、生きるための方法を考える。その方法は無限にある。これを戦術という。 有名なことわざに、「負けるが勝ち」というのがある。これは負けたことを慰めるニュアンスが強位が、本来は、「負け」を餌に、勝ちを取る、高等な戦略だ、とあちこちに書いている。 勝を戦略として、負けを戦術としてつかうのは、人は勝ちにいったとき、最大の隙が出るからである。だから勝つために、隙、弱さを見せる。これが戦略をわかっていない者には、「負け」に見える。もっとも戦略をわかる者の狙いは、まさにここにあるのだが。 だれでも知っている事例で示そう。 秀吉は、小牧の陣で、この戦略をとっている。家康に負けることで、家康を臣下におくことに、見事に成功した。それは秀吉の狙いは、戦いに勝つことではなく、強大な家康をそうしたら進化におけるかにあった。そのためには家康に面目を立ててやらねばならない。こう考えた。 そのためには、家康に負けて頭を下げるなど、秀吉には、ヘもなかった。 それは、家康を臣下に置けば、天下を得られる、という大戦略が、さきにあったからに他ならない。 戦いの勝ち負けすら、戦術に使っている。秀吉のまさにすごさ。つまりこの場合、家康を治めれば天下がとれる。そのためには小牧の合戦、くれてやるわい、という大戦略。負けを撒き餌にして、家康を釣る。それは家康をつり上げることで天下をとれる、という確信があったからだ。 もっともそれをわかっていて、あえてそれに乗り、次を狙った家康のしたたかさ。 戦略に結果論というのはありえない。 全戦全勝、常勝、必勝型の経営者、等と呼ばれている人を見ると、戦術にふくよかさがなく、いつぽきんとおれるのかしら、と不安を感じるのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.04.03 12:03:18
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