問と解ー2
このままでは、今後も企業側の出す解は、消費者にとっての誤解になる確率が高く、その量は堆積されることになる、と昨日、書いた。 このことは、言葉を換えると、ようは企業の出す情報一切を、信用してもらえなくなるということだ。 宣伝効果が、以前と比べて落ちた。 チラシが聞かなくなった。 DMを開封さえしてもらえなくなった。 あのFAXレターも、反応が落ちた。 こうしたとき、「マンネリかな」と、思う。 「お客様が、飽きてきたのかな」と首をかしげる。 あるいは、みんな同業者、同じことをやり始めたからな、と自分もそのつ従者であることをそっちのけで、ぼやく。 そうかもしれないが、期待を裏切られた消費者の怨念が、クチコミ化し、新規ユーザーの反応を阻害しているのかもしれない。 そうである可能性は高い、と私は思っているのですが、そうであれば、「せっせと企画の苦心をし金を投じてなしたチラシ、DM、歳事などなどが、信用低下の促進と怨念培養にひたすら貢献している」ことになる。それを思うと私はぞーっとしてしまうのです。 それは,当然、信頼問題に関わってくる。「狼が出た!」と叫ぶ少年に、何度もだまされた村人は、やがて、ほんとうに出た、と叫ぶ少年の叫び声さえも疑ってしまう。 ここでたとえば、自社の宣伝企画を考えてみる。 まずは、自分なりの解でイメージして、企画書のラフを描く。 次に、そのイメージが、自分が消費者だとしたら、そのイメージを大歓迎し受け入れるだろ うか、と自らに問いかけ、企画書のラフに手を入れる。 「おっ、これなら気分が良いぞ」と、お客の自分が確信がもてたら、ゴー。 販売促進課としては、ここで売り手の自分のその判断は、初めて「正」解となる。 解は様々である。価格も解の一つ。言葉やコピーも解の一つ。要は、解は、ここでは手段だから、いくらでもある。足りなければ、組み合わせたり、追加したりして考えればいい。 そうした過程の中で、確度の高い「こちら良し、相手良し」の手段をいくつか組み合わせてやってみる。うまくいくまで組み合わせを変えて試みてみる。そうした実践過程で得たものが、その企業なり人のノウハウになる。そう考える。 誤解しているのは自分たち。正解は消費者の方。だから企業側が、消費者の解を学び、自らの誤解を正す、これが正しい解である。 それを、都合の良いときには、主語は自社、自分。だが都合の悪いことは、主語を抜き、入れ替えて、言い抜けする組織のこうした在り方からは、永遠に、消費者が企業に対する不可解、誤解を解くことも、ましてや正解を得られることはない。 信頼構築は容易なことではない。手暇がかかる。だが、相手様は、この企業、この人とつきあったら、間違いがない。企業側の人だが、自分たちの側に立って公平に情報を伝えてくれる。この人なら間違いがない。この人の企業なら裏切られることはない。信頼に値する。 ここまで企業が持って行けば、あとはやることなすこと消費者が疑いを挟まないのだから、たとえばチラシ一つにしても打率が極めて高くなる。否、そうした宣伝媒体そのものが不要になる。投資は取り戻せてあまりある。これが申し上げたいこと。 短距離型企業には間尺に合わないが、長距離型企業には、採算が合う考え方なのである。そもそも、企業はゴーイング・コンサーンを旨としているのだから。どちらを選ぶかは自明の理であろう。