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まあちゃん9541@ はるさん、ありがとうございます! 血圧が高いとのことですが、要注意その1…
西日本d@ Re:ものの見事に、こけた、こけた!(03/22) ご連絡ありがとうございました。 今では指…
はるさん@ Re:ものの見事に、こけた、こけた!(03/22) 「こけた」そうですがその後膝はいかがで…
まあちゃん9541@ Re:ものの見事に、こけた、こけた!(03/22) elsa.さんへ。。。 いや~、参りました。…
まあちゃん9541@ さっちゃん9さんへ。。。 こんにちは~ ありがとうございます。お…
さっちゃん9@ Re:ものの見事に、こけた、こけた!(03/22) どうぞどうぞお大事に!!  体作りは出…
elsa.@ Re:ものの見事に、こけた、こけた!(03/22) こけた後が大変ですね。 痛みや歪みが身…
まあちゃん9541@ Re[1]:ものの見事に、こけた、こけた!(03/22) 志津ママさん > 私もよくこけるので他人…
志津ママ@ Re:ものの見事に、こけた、こけた!(03/22) 私もよくこけるので他人事ではない(汗)…

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2005.01.17
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 今日付けの地元紙の第一面には、こんなタイトルで、メッセージが紹介されていました。。。

『お母さんへ

 お母さん、元気ですか。

 10年たって、お母さんがいなくなったのがやっと分かりました。今まで何時も夢にでてきては、やっぱりどこかで生きているんだと思っていたから、震災後、お母さんが無くなったと人に話すのがとても嫌でした。

 私は結婚して、ひまりが生まれてから、とても幸せに暮らしています。

 心温かいパパと今月1歳になったひまりは、私に家族の大切さ、生きていることの素晴らしさを教えてくれます。

 10年前、私のせいで、お母さんは死んだと思い込み、自分も生きていることがつらくなった時もあったけれど、もし自分より子どもの方が先に死んでしまうことの方がどれだけ悲しいことなのか、ひまりが生まれて教えられました。

 お母さんの代わりのように1月に生まれたひまりの姿を見て、今日はきっとお母さんも天国で喜んでくれていることでしょう。

 今、生きていて本当に良かった。お母さんは、私が生まれてからの16年間、一生懸命、私を育ててくれていたのですね。

 これからは、私もお母さんのように、愛情いっぱいにひまりを育て、家族3人で力を合わせて頑張ります。いつまでも見守っていてください。   幸代』

 阪神・淡路大震災は17日、発生から丸10年を迎える。16日、被災地では6433人の犠牲者への祈りをささげる集いが各地で開かれた。10年間を振り返り、語り、互いの絆を確かめ合う人々の姿もあった。「生きていてよかった」。母親を失い、今は自身が母となった女性が言った。「今度は私が人の役に立ちたい」。父を失い、成長した高校生が遺族代表の大役を果たした。亡き人の思いを受け継ぎ、懸命に歩んだ10年。鎮魂の祈りはどこまでも深く、希望という光が未来への一歩を支える。。。

 震災遺児らの心のケア拠点「あしなが育英会レインボーハウス」(神戸市東灘区)で開かれた「今は亡き愛する人を偲び話しあう会」。遺児3人が父や母にあてた作文を読み、約160人が遺影に白い菊を手向けた。

 神戸市内では母=当時(52)=と2人で暮らしていた岡田幸代さんは、震災があった1995年1月、高校1年生だった。自宅が全壊し、母だけが亡くなった。

 兵庫県外の親類宅に身を寄せ、高校を卒業。「介護福祉士になる」という母との約束を果たすため、県内の福祉専門学校へ。その後、老人ホームに就職した。

 「私のせいで、お母さんは死んだ」と自分を責めた時期もあった。「生きていることがつらくなった時も」。この日、涙ながらにそう語った。

 腕の中には、昨年1月に生まれた長女ひまりちゃんの姿。わが子をあやしながら声を詰まらせた。「生きていて本当によかった」。

 今、夫と子どもの存在が家族の大切さ、命の重みを教えてくれるという。「お母さんのように愛情いっぱいにひまりを育て、家族3人で力を合わせて頑張ります」。作文をそう締めくくった。。。




 震災の真っ只中で、こんなことがあったと、改めて思わされる出来事を正平調というコラムでも紹介されていました。

 その年配の夫婦が帰ったあと、不意にこみ上げてくるものがあった。部屋で一人になると、こらえきれずに涙が流れた。

 阪神。淡路大震災から10年目に入った昨春、神戸新聞の発言欄に載った佐野武さん=神戸市東灘区=の投稿である。なにがこみ上げてきたのだろう。ずっと気になっていたので、あらためて話をうかがった。

 自宅が無事だった佐野さんは近隣の人に電話を自由に使ってもらったという。玄関を開け放ち、ガラス片でけがをしないよう板を敷いた。多くの人が、その電話で肉親らと連絡をとった。ようやく相手とつながった途端、その場で泣き崩れた女性もいた。

 昨年3月、突然の来訪者があった。それが冒頭の夫婦である。「あのとき電話をお借りして」と二人は礼を述べ、実家に住む佐野さんの父が震災で亡くなったことを慎んだ。そして、長らく見を寄せた岡山県からやっと神戸へ戻ってくることになったと告げた。
 
 夫婦を送り出すと感慨が胸に満ちた。自宅が全壊し、言い知れぬ苦労を重ねただろう二人が願いをかなえた。それを素直に喜びたい気持ちに、震災への恨みが交じった。わが身にも降りかかったリストラ。あの夫婦のように、不慣れな地での生活を強いられた人も多い。「うれしくて悲しくて、涙が」。佐野さんはそう話した。

 被災地はきょう、震災10年となる。といっても、なにかが変わるわけではない。佐野さんのように心の振り子は揺れ続ける。ただしこう祈りたい。うれしさの方へ少しずつ大きく揺れていきますように。。。




 土曜日は、母が老人会ということで、では、月曜日に。と勘違いしていた眼科医院への通院は来週ということに。で、結局叔父のお見舞いにも行きそびれての今日、気にはかかりながらも、私自身に風邪が残っていてもし叔父に影響を与えてしまったら。ということもあって、お見舞いは来週の月曜日に母を眼科へ連れて行く途中で寄ろうということに。

 皆さんにもすっかりご心配をおかけしてしまいましたが、
週も改まり、今日は病み上がりのうちの仕事となって、職場の皆さんにご迷惑をおかけしたお詫びから始まって、いよいよ、新市社会福祉協議会発足2週目ということもあり、諸手続きに忙しい始まりに。考えたら年金手帳を預けてしまったら、何の控えも手元に無いけれど、ここは信頼するしか無いかな?
 
 震災から10年ということで、ここ数日はそれにちなんだドキュメントが多くテレビで放映されていた。改めてあの歩くことさえ出来ない瓦礫の山や、見る見る火の手が上がる神戸の様子、阪神高速道路の倒壊。などを見せ付けられると、目を覆いたくなるばかり。将に生死を分けた何日間だったと思う。

 新潟で中越地震が起きたときも、初動がいかに大切か。ということで、神戸市からいち早く救助に向かった人たちが居たと、改めて知らされた。奇跡的に瓦礫の中から救い出された男の子の救出シーンは、全国の人が釘付けにされたと思う。

 生きてさえいれば何だって出来る。。。確かに、冒頭で述べた様に、生きていることが辛くなることは誰にだってあると思う。でも、生きているからこそ、素晴らしいことにだってめぐり合える。

 先日も、あれは4日ぶりだったか、スマトラ島沖地震で両親とはぐれてしまった男の子が父親にやっと会うことが出来たと報じられていて、一人で浜辺を彷徨い歩いて、すっかり痩せ細り、栄養失調状態だった男の子の姿に父親が思わず抱きしめる姿には涙をそそられてしまった。どんなにか不安な毎日を一人で過ごしたか、と思うとそのことで胸がいっぱいになるけれど、何とか元気を取り戻して欲しい。

 亡くなってしまった人の分までも、私たちは生き抜いて行かなければと、改めて思う。私たちが元気でいることが、亡くなってしまった人の何よりの供養になる気がする。 





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Last updated  2005.01.17 20:47:56
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