地元紙で、今年他界された方を追想メモリアルという形で紹介しているコーナーがあり、その中に、11月27日に他界された元神戸大学医学部教授・岩村昇氏のことが、タイトルの様に紹介されていましたので、そのまま引用させて頂きます。
『原爆症を患いながら、ネパールの無医村で医療奉仕に身をささげた。孤児らを育てた半生は教科書にもなった。帰国後も人材育成に取り組み「アジアの赤ひげ」と呼ばれた。「分かちあい」の大切さを説き、国際協力の種をまき続けた。今月16日、神戸であった「感謝と送別の会」。思いを継いで活動する人たちが会場を埋めた。
1981年に設立した草の根の国際協力団体「PHD協会」(神戸市)は「ともに学び、支える」を理念に、アジアや南太平洋の青年を招いて農業や保健衛生の研修をしている。当初から受け入れに協力してきた篠山市の元高校教員言わした富子さんは、同市内の市民グループの一員となってネパールと交流を続け、農家民宿の運営や在住外国人支援にも加わっている。「先生との出会いが私の人生を変えた」と遺影を見上げた。
大阪市西成区でケースワーカーとして働く入佐明美さんは「看護師だった23歳のときに講演を聞き、海外協力を申し出たら、結核患者が多かった釜ケ崎を紹介された」。米国のNGO大乗ロナルド・オコーナーさんは「医学生時代にネパールで出会って影響を受けた。魔法のような力があった」。
後輩を突き放す厳しい一面もあった。日本キリスト教海外医療協力会の斉藤洋子さんは「現場から自力で学び取る姿勢を教えられ、後にバングラデシュで保健師として活動できた」と慕う。
晩年は、妻史子さんと、ネパールから引き取った養女まやさんと、三木市内の自宅で療養生活を送った。2001年、20周年を迎えたPHD協会には「質素な暮らしは心を豊かにする」「時代に抵抗する力、哲学を持たなければいけない」とのメッセージを残した。開発が進む研修生らの村々と、命をないがしろにする事件が続く日本の行く先を、最後まで案じていた。』
どうぞ安らかに。。。