昨日付けの地元紙(今日から12月だというのに)第一面の左側に、『兵庫人』というコーナーがあって、その20回目。ジャーナリストとして大活躍される、“兼高かおる”さんが主人公。『お茶の間に「世界」を』とあり、そのまま引用させていただきます。
『日曜の朝、見慣れぬ国の風俗や伝統文化を紹介するテレビ画面に、多くの日本人が心を躍らせた。優雅な語りで、お茶の間に「世界」を届けたのは、神戸生まれの兼高かおる。番組は1959年から31年間続き、訪れた国は約150カ国、移動距離は地球180周にも及ぶ。
インド人の父と日本人の母の間に生まれ、おてんばな少女だった。6歳で東京へ転居したが、海の向こうにかすんで見えた淡路島には今、膨大な収集品を集めた「兼高かお旅の資料館」が建つ。
“お茶の間に「世界」を”
外国での仕事を夢見て54年、米ロサンゼルス市立大に留学。体調を崩して2年で帰国したが、英字紙などのライターとして人脈を広げた。
転機は30歳で訪れる。
「私なら80時間でやれるわ」。58年、航空各社の運航スケジュールをつなぎ合わせて世界早周りに挑戦し、73時間9分35秒の新記録を樹立した。若い女性の冒険旅行は開局間もないラジオ東京テレビ(現TBS)幹部の目に留まり、翌年、兼高かおる自身がナレーター、ディレクター、プロデューサーを担当する「兼高かおる世界の旅」が始まる。民間人の海外渡航自由化に先立つこと5年。初の外国取材番組として海外旅行ブームの火付け役となった。
最初の取材はヨーロッパ、南米、アフリカ、アジアなど15カ国を4カ月かけて回った。欧州は第二次世界大戦後の復興期で「人種も国境も超えてみんな仲良く、平和の喜びがみなぎっていた」。兼高も日本の良さを知ってもらおうと、和服に真珠、手にはトランジスタラジオと「見本市」のような姿で各地に降り立った。
一方、アフリカなどでは十分な医療が届かない現実を知り、帰国後、「医者になる」と宣言した。だが、スポンサーだったパンアメリカン航空の幹部に諭された。「君一人が医者になるよりも、百人になりたいと思わせるのが君の仕事だ」。伝説の長寿番組はこうして誕生した。
ジャングルを歩き、気球でアルプスを越えた。南極大陸(71年)と北極点(89年)の両方を取材したのも女性初。男性カメラマンが尻込みしても、「やってみなければ伝えられない」と、必要ならば何でも食べ、体験した。
ありのままでぶつかる兼高に、各国要人たちも心を開いた。スペインの巨匠サルバドル・ダリは、自慢の口ひげを「宇宙とのアンテナだよ」と教えてくれた。キューバ危機のさなか、徹夜明けでインタビューに応じたケネディ米大統領は翌年、凶弾に倒れた。兼高の手元に残る写真には、穏やかな表情の大物らが写る。
しかし、最も心を動かされたのは普通の人々の暮らしだった。庶民の視点から、失われてはならないものを伝え続けた。「人と人との希望を結び付けるのがジャーナリストの役割」。長い旅を終え、あらためてかみしめる。(敬称略)』
当時はやたらと長いCMだった気がする。ずうっとテロップのように企業名が下から上へと流れていたことしか覚えていない。どこの国がどうだったとか、そういうことは覚えていないけど、どの国へ行ってもにこやかにその土地の人と会話していたと思う。
仰るように、『人と人との希望を結び付ける』こと。。。最初にパンアメリカン航空の幹部に諭されたように、『百人になりたいと思わせる』そこに希望を見出した人は一体何人いただろう。
“さだまさし”さんの「風に立つライオン」。。。どこか主人公の思いと繋がっている気がしてならない。『道を間違えたようですね』と歌詞の中に出てくる。とても重みを持って私に迫ってくる。そして、『病気だけれど少なくとも心は僕より健康なのですよ』とあったように思う。きっとこのことを言いたかったんだ!
兼高かおるさんは、80歳と紹介されている。母よりもはるかにお若いのに、凄いなぁ。