{上方と密接な関係をもって発展してきた淡路人形浄瑠璃は、江戸時代前期から西日本を中心に各地を巡業し、浄瑠璃文化を地方に伝えた。淡路の人形座が伝承してきた演目には、中央では早くに廃絶したものや、淡路で改作・創作されたものも少なからずあり、淡路人形浄瑠璃は近世演劇史の一翼を担う重要な役割を果たしてきた。
淡路人形芝居の起源について、淡路座が大切に伝えてきた『道薫坊(どうくんぼう)伝記』と呼ばれる巻物に、摂津西宮の百太夫(ひゃくだゆう)という傀儡師(かいらいし)が淡路の三條(さんじょ)村(南あわじ市市(いち)三條)に来て人形操りを伝えた、という伝承が書かれている。三條には、淡路人形の祖先神である道薫坊や百太夫を祀る戎社があり、今も正月には社前で『式三番曳(しきさんばんそう)』が奉納されている。
江戸時代になると、上方から新しい浄瑠璃や技術をいち早く取り入れ、一座を組んで各地に巡業に出た。行く先々で野掛け小屋という仮説の芝居小屋を組んでの興業で、1月上旬に淡路を発ち、12月中旬に帰ってきた。淡路の人形浄瑠璃は、他の漁村芝居などと異なり、もともとそれを職業とした専業集団によって伝承発展してきた芸能だった。
淡路の人形座は、享保・元文期(1716~41)で40座以上、文政期(1818~30)で18座を数えた。なかでも淡路人形の元祖として由緒と権威を誇ったのが上村源之丞座(ひゅうがのじょう、引田源之丞)で、市村六之丞座がそれに次いだ。初代源之丞は、元亀元年(1570)年に宮中で『三社神楽(式三番曳)』を奉納し、従四位下(じゅしいのげ)の位階を授かったと伝えられ、それを示す「綸旨(りんじ)」は、『道薫坊伝記』とともに淡路人形の格式を証明するものとして大切に伝えられてきた。}{}南あわじ市淡路人形浄瑠璃資料館資料よりの引用です。
格式の部分が眼に留まりましたので、記録のためにこちらでUPさせていただきました。