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まず、近・現代史を知らなさ過ぎる。
急遽、韓国、朝鮮半島の近・現代史をあさる。 ちょうど、刻む会で日韓通史の資料を手始めにと買ってあった。 今読んだホヤホヤ。 知らなかった解放後韓国の歴史を整理する。 日韓歴史共通教材「日韓交流の歴史」明石書店、より 朝鮮南部では、親日派の処罰に消極的であった右翼が独立国家の建設を第一に主張したのに対し、左翼はまず親日派の粛清を主張した。 結局、右翼側が勝利したために、親日派は社会各界において植民地期に享受した地位をそのまま維持することとなった。 大韓民国政府樹立後、国会は世論を背景にして親日派処罰のために反民族行為処罰法を制定した(1949年)。 この特別法に依拠して反民族行為特別調査委員会(反民特委)が設置され、親日の嫌疑を受けた主要人物を調査した。 しかし、行政府や警察の至る所の主要ポストに親日行為を行なった人物を登用いた李承晩政府は、親日派の処罰に消極的であった。 さらに、警察を動員して反民特委を襲撃して、職員を連行した。 その上、反民族行為者の範囲を大幅に狭め、親日派処罰の期限を縮めることで、反民特委の活動を事実上終わらせてしまった。 こうして、親日派の処罰はなし遂げられず、これによる副作用は長い間、社会に悪影響を及ぼした。 と書かれた「悪影響」が、モレシゲに描かれる民主化要求の弾圧、拷問、軍隊の理不尽、光州民主化運動の弾圧、サムチョン教育隊になっていくのだろうか。 ちらっちらっと表れるだけで、説明なし。クソ、自分で学習しろってか。 パク・チョンヒ政権、全斗煥政権。何年に替ったんだっけ? Wikipedia「第五共和国(大韓民国)」より、 1979年の金載圭が起した朴正煕暗殺事件の後、崔圭夏が大統領に就任していたが、程なく韓国軍戒厳司令部合同捜査本部長の全斗煥将軍が粛軍クーデターで韓国軍を掌握し、盧泰愚を中心とする新軍部勢力と共に実質的な権限を握った。 この間、独裁的な政府の支配に対する強硬な抗議の声が市民社会の間から現れ、主に大学生と労働組合によって為される抗議活動が、大規模デモによって最高潮に達した。 その為全将軍は、1980年5月17日に戒厳令を布告して民主化運動の取り締まりにかかり、金大中、金鍾泌といった有力な政治家を拘束した。 更に5月18日に発生した光州事件では、学生らの抵抗に対し軍事力を用いた徹底的な弾圧を行なった。 一方の内政面は、経済面での功績を上げることには成功したが、朴正煕の死亡で民主化への期待を高めていた国民には、クーデターで政権を握った全斗煥ら新軍部を認めることができず、政府に対する大規模な抗争が次々と発生した。 その為、全政権は「正義社会の具現」をスローガンとして、国民の関心を政治からスポーツや娯楽などに移そうとした。 実際、韓国プロ野球はこの時代に始まって現在でも続けられて世界クラスの成績を残しているし、のちのソウルオリンピックは東西冷戦の終結ムードの中で大きく盛り上がった大会となった。 だが、1985年頃から光州事件における虐殺的鎮圧の真相が明るみになり、続発する人権蹂躙と権威主義的独裁などによって、民主化を求める国民の批判を受けた。 1987年1月、「朴鍾哲(パク・ジョンチョル)拷問致死事件」に触発された大学生らのデモの最中に、李韓烈(イ・ハンリョル)が催涙弾に当たって死亡する事件が発生した。 これに対する民衆の怒りが、民主化運動に対する全国的な統合感を引き起こし、市民や学生らによって起きた6月抗争で、全斗換政権は最大の危機にあった。 結局、当時の与党である民主正義党の盧泰愚大統領候補が六・二九民主化宣言を発表し、1988年の民主的な選挙による大統領の選出と、憲法を民主的に改定することで第五共和国は終焉を迎えた。 だいぶ、スッキリしてきた。 モレシゲの画面は、これらの悪業を、徹底して突き放すように描く。 この、時に感情移入を拒絶したように見える画面は、いったいなんなのか。 親日派の負の遺産と総括することができるなら、その拡大再生産を清算することは、 現代韓国でどう位置付けられるか。 それを見る日本の我々は、この告発から、韓国社会のうめきから、 何を突きつけられているのか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007年08月27日 00時52分15秒
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