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ドワイト・マクドナルドは、戦争遂行が "当たり前の生き方"である、アメリカ的文化の行く末を提示した。19世紀後半と、二十世紀初頭、カール・マルクスを含めた改革と社会運動の理論家たちから、まんまと逃げおおせた永久戦争という概念が、大衆支配をするこの効果的な仕組みに、社会改革が対応できないようにしてしまったのだ。旧来の改革論者は、国家内部の階級闘争にばかり集中するあまり、マクドナルドが指摘するように、 "戦争の政治的重要性に関する十分な理論"を決してまとめることがなかったのだ。この溝が埋められるまで、"現代社会主義はどこか学問的な香りを漂わせつづけるだろう"とマクドナルドは警告した。 マクドナルドは、1946年のエッセイ"Root Is Man"で、資本主義と永久戦争との結婚の詳細を描いている。永久戦争経済と、それと並行する精神構造が敗北するまでは、効果的な抵抗運動はありえないと彼はあきらめていた。アナキストだったマクドナルドは、西欧デモクラシーにおけるマルクス主義者もリベラル派も、ともに国家の高潔さを前提とする人類の進歩を、誤って信じていたという。この信念は、とんでもない間違えだと彼は言う。資本主義アメリカ合州国であれ、共産主義ソ連であれ、国家というものは結局のところ、自らの子供たちをむさぼり食らうのだ。しかも国家は、自国民を、恐れさせ、無限戦争の状態においておくために、大量プロパガンダ機関を活用して、これを実行するのだ。市場の聖なる偶像の前で、またはユートピア的な労働者の天国の前で、人類はいけにえにされるべきだと主張して、国家がこれを行うのだ。戦争国家は、ドイツ野郎なり、ボルシェビキ、ナチス、ソ連工作員あるいは、イスラム教テロリストといった敵を次々に提供してくれる。マクドナルドは、恐怖と戦争が、国家安全保障の名において、寡頭政治家連中が、略奪をするための仕組みであることを理解していた。 "現代の全体主義は、恐怖とプロパガンダによって、大衆を政治構造に完全に統合することができるために、大衆は自らの奴隷状態を主導するようになってしまう" と彼は書いている。"これは奴隷の身分をより解放するのではなく、逆に悪化させる。ここでパラドックスは、そこには解決する余地が皆無だということだ。資本主義ではなく、官僚主義的集団主義こそが、最も危険な将来の社会主義の敵なのだ。" 民主主義国家は、永久戦争経済と、それにともなうプロパガンダを廃絶しなければならないとマクドナルドは主張する。民主主義国家は、真実、公正、平等と共感といった、非歴史的で、より深遠な価値観に従って、行動し、統治しなければならないのだ。教会、大学、マスコミから民主党に至るまでのアメリカ・リベラル派は、空虚な政治と法律によって要求される実務的な命令に敬意を表することで、道徳的な発言権を失ってしまったのだ。リベラル派は邪神に仕えているのだ。戦争、科学、技術や消費による進歩への信仰が、こうした非歴史的な価値観を踏みつぶすことを正当化するのに利用されてきた。グローバル化の至上命令の盲目的な受容と、グローバル化は、不可避な進歩の一つの形式だという、悲劇的で、誤った信念というものが、おそらくはマクドナルドの主張の中心的例証だ。市場のニーズか、人類か、いずれかを選択するなどということはありえない。そんな選択などありえない。我々が、法人資本主義であれ、他のあらゆるユートピア構想という形であれ、人類の進歩、という虚構に仕えることから自由になるまで、我々は牙を抜かれたままであり続け、人々の無用な窮状を存続させるだろう。アテネでストライキをしている群衆が理解しているとおり、大切なのは銀行ではなく、子供たちを育て、共同体を作り上げ、生活を維持する人々なのだ。そして政府が、一体誰のために仕事をしているのか、何のために存在しているのかを忘れ去った際には、政府は置き換えられるべきなのだ。 "進歩主義者はイデオロギーの中心に歴史をおいている" とマクドナルドは"Root Is Man"の中で書いている。"急進主義者はイデオロギーの中心に人間をおいている。進歩主義者の態度は、人間の本性(彼はそれが善だと考えており、だから必要なのは、この高潔さに機能できる機会を与えられるよう制度を変更することだけで)についても、 科学的な方法で歴史を理解する可能性についても、楽観的だ。急進主義者は、悲観的そのものとは言えないにせよ、二面性について、少なくともより敏感だ。彼は、科学が物事を能力する能力についても、ある点を以上については懐疑的だ。彼は、現代のみならず、いかなる総称であれ(社会あるいは労働者階級の利益)人間の運命における悲劇的な要素に気づいている。急進主義者は個人の良心と感性を強調する。進歩主義者は実際に起きていることから出発しようとする。急進主義者は自分が起きて欲しいと考えているところから出発しようとする。前者は歴史は‘自らの側にある'という感覚を持っているに違いない。後者は自分自身の個人的良心によって指示された道を進むのだ。もしも歴史も、彼が進みたい方向と一致していれば、それを喜ぶのだ。しかし、彼は‘現実がどうである'かではなく、‘どうあるべきか' という方向に進むという点において、実にかたくななのだ。" http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-1ab1.html お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010年06月14日 02時27分42秒
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