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うみ・そら、「大阪の海と空を戦争に使わせない会」の、『戦争の加害と被害の史実から学ぶ』学習会 に、参加してきました。 メインが、大阪大空襲直後の、焼け爛れた大阪のフィルム上映だったらしいのに、上映後に会場着。 同ビデオは、大阪・森之宮 「ピース大阪」 (一度行ったことある)で、閲覧できる、ということなので、そこで観ることにして。 元議長!有元幹明さん。 この人が、懐の深いひとで、メッチャ隣にいておもしろい! 戦後の歴史の色んなところに実際に関わってきた方で、表情に、その時々のエピソードを語る時の、笑っているお目目のとき、一転真摯な表情に転換するとき、があって、見入ってしまう。
以下、田中機械のおいしい地ビールを飲みながら。 三池闘争に参加する汽車に乗った、まさに、汽車がゴト!と動き出したとき、トランジスタラジオから聞こえてきた、「いま、三池で人が殺された!」の声! え、俺らその現場へ、人の生死が掛かる現場ヘ行くんや。 と衝撃を受けた。24歳のときであった。
公務員であった有元さんは、そのなかで、労・資の対決、そのどちらに自分はつくのか、あいまいは許されない、と直感した。 自分がどちらに立つのか、を参加するものに迫る場であった。 三池は、労と資の主張が厳しく対立するものであること、それがいやがうえにもあからさまになる場であった。 これが、自分の労働運動の原点である。 といわれた。
その頃は、透明なビニールというものが、初めて発明された頃で、団結小屋の屋台組みには、そのビニールが屋根として掛けてあった、昼は光がよく入るように。 夜は雨の音が、バラバラ!と激しく聞こえた。
夜警に行く。 すると、週刊誌が山積みしてある。「みなさん、各自、週刊誌を腹に4.5冊づつ巻いてください!」 巻く。「向こう脛にも、まいてくださーい!」 「ヘルメットを被ってください!」炭鉱労働者の、ライトが付いたヘルメット。 「それができたら、隣の人のベルトをしっかり握って。けっして離してはいけませんよ!!」 隊列を組んで鉄条網のはってある境界域まで掛け声を掛け合って進む。 鉄条網の向こうには、機動隊。 棍棒で腹を付いてくる。一瞬ひるむ、ベルトを握った手が「う!」、とゆるむ、前屈し、機動隊に首根っこを見せたら最後、隣の人が引き抜かれる! 先ほどの注意は、そうならないように、ということだったのだ!
あんたら、警察は中立やないんかい!? それがなんで、棍棒で殴って来るねん!? それまで、有元さんは、警察は中立、労働者と資本がぶつかり合ったなら、あいだに入って、まあまあと分けるのだと思っていた。違うかった! 国家権力は、労働者が資本に権利を主張するとき、資本の側に付くのだと、痛いほど身をもって分かった。
三池闘争の切り崩しが始まった。 政府側の目の付け所は、なんと、炭鉱労働者側のリーダーが、在日韓国人だった、ということだった! 「おまえら、朝鮮人に率いられて、平気か!」 そんなことで、切り崩されたった、ほんとですか?! そうなんだ。そこから始まった。 「血のメーデー」事件というのがある、この闘争の先頭にたったのが、在日韓国人の人たちだった。 共産党は戦術指導をした。 在日の人たちは、8.15で解放され、これは、日本の革命だ、と思っていたから、先頭に立って闘った。 その中核にいた人が、自己批判している。「日本の革命は、日本人がするべきだったのだ。」 日本人は、彼らを裏切った。共闘しなかった。 そのことを、真摯に反省しているのか。
なぜ、日本に、こんなにたくさんの朝鮮人が住んでいるのか。 日本の強制労働で連行した結果だ。 在日の人たちは、日本の敗戦で解放された。 が、朝鮮戦争、中国も内乱状態、非常に苦労をされ、帰るに帰れなかった。 アジアの人たちは、一様に苦労した。 そのことを見ずに、韓国朝鮮のことは、考えられないはずだ。 お家は、森之宮の陸軍砲兵工廠の壁の外にあった。 大阪空襲で、激しく爆弾を落とされたところだ。 「お家は、丸焼けに?」 いえ、その前に、強制疎開です。 緩衝地帯を作るために、家屋は引き倒された。
戦後、焼け跡に行った。 家の傍にあった電柱が残った、自分と兄が刻んだ文字が読めた。 コンクリートに釘で刻んだものだった。 「ウチテシヤマン」 戦争中、小学校時代、在日朝鮮人の子どもは、日本名を名乗っている。 でも、分かる。 「今日は気分がむしゃくしゃするな。」 となりの子を、殴った。隣の子は、一言も返さず、体を小さく固めて手を握りしめていた。 その子は、在日の子だったから。 自分は日本人で、在日の子より優位だったから。 それが、戦中の日本人だったのだ。
2年の疎開の後、帰ってきてその子と、また隣同士になった。 むしゃくしゃするな、また、殴った。 そしたら、ボコボコ、ボコボコ! 「俺は、我慢しとったんや! 日本人に殴られたなんて、お父ちゃんに言えるか!」 殴った方は、忘れてた。 有元さんは、学校を一日も休まなかったので、次の日も登校しなけりゃ・・と家にいた、 で、その子が、「まさあきちゃん、ガッコウいこう!」と迎えに来た、というのだ。 彼と彼は、それ以後、仲良しになった。 ピース大阪の事務局長になって、大阪大空襲を記録する事業を立ち上げた。 そがさんら、被害者の方たち1000名に、「あなた方の目に焼きついている空襲を絵にしてください」 ピース大阪A展示室には、それら1000枚の、一人づつが異なる爆撃被害が収められている。 被害者の方たちの取り組みの大きなものに、『援護法』制定がある。 国が戦争を始めたら、こんなにコストが高くつくねんで、ということを、権力側に、よう、教えとかなあかん。 原爆被害が援護法で補償されて、なんで、都市空襲の被害者が放置されるのか、おかしいではないか。
この、「おかしいではないか」という、素直に見る目が大事だ、と力を入れて言われた。 例えば、起源2千6百数十年、ですか、何とか天皇の御世に、って、その頃、日本に文字あったんか。ドないして、残してん。こんな当たり前のことを、「おかしいやないか」、という素直な目が、大事やないか。 講演本題では、大阪の港湾労働者として強制連行された受難の中国人を追悼する石碑に刻まれた言葉、有元さんの筆によるものです。 「彰往察来」 これは、往時を彰かにして、未来を察する という中国のことばです。 中国にも77年から10数回行かれ、いたるところで、「我々は君達のしたことを忘れない。 キミたちは、自分達のしたことを、忘れていないか?それでは、国の行く末を誤るぞ」と言われるそうです。 そういうことは、現地に立って、胸に迫る。 現場に立つ、歴史検証が、是非とも必要である、と言われました。
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Last updated
2010年06月21日 04時14分25秒
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