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March 19, 2006
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テーマ:ココロ(1187)
カテゴリ:カテゴリ未分類
ことわっておきますが、この度は今までに無い四部作から成る長文です・・・。←ってタダ単に書ききれなかった・・・




どんな人でも、その人生に何度かは救いの手が降りてきているそうです。



ですが、残念な事にあと一歩というところで、それを掴めずに貴重な人生を過ごしてしまうのが、大半の人なのだそうです。
もしも、そんな物が来てくれたら・・・救世主はイツになったら自分の前に現れるのだろう・・・多かれ少なかれ、誰しも心の片隅に、そんな思いを抱いた経験は、あるはずです。


一説では、才能の無い人など、この世に一人もいないと言います。
大概はその人自体が、乗っかる秤を間違ってるか、もしくは、その人を取り巻く世の中が間違った物差しで計っているのが世の中の常だそうです。



又、一方では自分は本当は何がしたいか、心が何を欲しているのか、それすら解らずに終わるのが、残念ですが、九割以上の人生だとも、言われています。



人の心とは脆く、折角志しても、他人による劣等感等からの、マイナス的な意見に引きずられ一発で崩れる事だってあるのです。



僕もこれまでの人生、救いの手には大いに期待せざるを得ない状況に何度も陥りましたが、今生きている、この状況を考えると、救いの手ととってとれない事もありませんが、しかし僕の信じる救いの手とは、一見地味でもとても大きな力と愛を持った存在です。そして、それは実に人々の心の中に、すでに存在しているのかも知れないのです。


おやっと思うかも知れませんが、救いの手と言っても、なにも全面的な援助やバックアップが決してその全てでは無いのです。むしろ、それを都合良く、全面的期待する心に、反作用が現実の現象として起こる危険性だってあるのです。後一歩という人には、何をしてやれば良いかをじっくり考えると、一人のほんの少しの助力でも、第三者の経験や視点からくる助言が、大変大きな力を発揮する時だってあるのです。



その理由は、不憫にも全く自分の存在とは、自分では見えないものだからです。その為僕は自分の周りにもし、もう一人の自分がいて第三者として冷静に見てくれたら、どれだけ助かっていただろう。という願望のような物にいつも駆られます。その為にただ黙って見てないでなにをしたらよいか・・・・


そこで自分の選んだ道は、そういう人物に自分自体が成ることでした。


そんな出来事が、僕の人生には幾度かあり、その都度僕は葛藤はありましたが、取り敢えずは迷わずその道を進みました。それらはささやかでは有りますが、ハッキリとした奇跡を僕に見せてくれて、とても勇気づけ、ある部分での心の傷を埋めてくれ、そして、心に平安をもたらしてくれました。


本題に入らせて頂く前に是非、話しておきたい大切な事があります。それは、紹介しておきたい人間、実は僕には同時に巡り会った、二人の師がいるのです。一人は撮影の師、もう一人は商売の師です。二人は共に六スタの出身で、かの有名なS大先生の助手をしてました。本人は過去の自慢話をあまりしませんが、僕を励ますためにある人が教えてくれました。撮影の師MはファストアシスタントでありG○R○の表紙やパ○コのポスターは彼の手によるものだったと・・・親の死去により家業を一時継ぐ前は大変可愛がられ有望だったと・・僕はMアシのそのあと、M後輩の商売の師Sに引き抜かれ二十代前半でフォトスタジオの店長を経験しました。

言ってみれば、この二人が心の中で助けてくれ、そしてイツも居る故、現在地道に頑張っていられる訳でもあります。未だ撮影しても師匠Mの注意の掛け声が耳の奥から聞こえたり、商売で何かを決める時などは師匠Sの声が聞こえて、あっと思って急に直したりすることも有るのです。不思議です、それだけでは有りませんが、そういう存在を師と呼ぶのでは・・そう言うのが代々続くのも継承と呼ぶのでは・・・っと思うことが良くあります。



両師匠は対照的で、M師匠は純粋な写真家のようなお人、先生家業をずっとしておりました。一方、S師匠は六スタのあと、数々営業を経験しその後M師匠と共同経営者になり、その後僕をひっさげて独立した人間です。いかに才能や技術があっても、フォトグラファーとして生き延びるには、花で腹は・・とでも申しましょうか、営業という物は全く不可欠なものです。


オープンしたスタジオも一様、一企業として中小企業連合会などから良く経営者セミナーなどの誘いは来る物の、Sは何故か一度も出たことがありません。その代わり僕を出すんです。ある日理由を聞いてみると「俺が”やること”を差し置いて、商売敵の集まりに出ることが、なんの意味があるんだ。それよりお前は若いから、経験と勉強が必要だと思って出しているんだ。」との事。事実、オープンしたばかりの店はそんな余裕の経済状態ではなかった。そんな中で僕を出しててくれいたことに今も深く感謝してます。若輩の僕にとってセミナー等はとても為になる勉強でした。



でも、それ以上に気になることがあったのです。Sの言う”やること”です。

普通店舗と言えば、セミナーでなくとも、どんな本にもその柱と成る部分は立地条件、客層、集客法に料金設定、云々と記してあるのが普通ですが、これは詳しくは申し上げられませんが、師匠Sはその前に立つ理論があったのです。極々簡単にだけ言えば、まず、その土地とその人間関係及び流通経路の研究からはいり、要に社会人的な心理をも良くとらえています。言ってみれば決まり切ったセオリーはその後で・・・の様な感覚でした。

当時Sは世間から見てフォトスタジオにはあまり力が入っていない風にも見えましたが、今の自分と同年代なのに個人的に土地などの資産やビルを持って経営するなど大変な事業家でした。そんな事に対する尊敬心ともに僕が気になったのは、その全くどんな土地でも通用しそうなS理論でした。しかし、いま考えても両師匠の考え方は、あまりにも対立していて、屈折した部分を兼ね備える諸刃の剣とも思える部分があり、必ずその交わる部分というかアベレージの延長ようなものが存在するとある時期から僕は思うようになりました。きっと何かがある・・恐縮ですが、偉そうに言わせてもらえれば(師匠お許しを~~汗)”J理論”です。


こんな事を考えると、と言うか、いつも思い出すのが、我が後輩W太のことです。


それは約6年程前ですか、独立して未だ間もない頃の僕を訪ねて彼から電話が来ました。かれは僕がS師の引き抜きを誤魔化すために送り込まれた(良いのかな言って・・時効時効!)ビデオ撮影会社の名オペレーターでした。そこの経営者がまた強力で彼は悩み抜き、酒豪と化していた部分があり、僕が良き相談者的な部分と若くやんちゃな二人はとにかくウマが合いました。高校の5つ下の後輩だそうで。彼は異常にノリの良い男でした。僕はひとに「この世界最終的に生き残るのはノリの良い奴、背伸びして大人ぶった奴はみ~んなおさらば」って言う事がちょくちょくあるのですが、これは事実、特に写真撮影は専門学校を出たところで十年後1割しか生き残れない世界なのです。僕にとって、自分以外の生き残り代表選手が彼です。

彼はイツも高速編集によるサブリミナル効果や寝不足等で吐き気と闘うほどの激務でした。おまけに低賃金でその交渉など影で入れ知恵して成功させていたのが僕・・・・全く仕事に愛情がないとやってけないのと、やはり冗談やノリの良さが無いと・・って部分非常に大きいのです。余談ですが対照的なのが仕事上のからみで面識を持つことになった、AV撮影隊でした。言葉の上では冗談飛び交っているのですが、目が笑っていません。それはまるで、かの有名な、○家こ○”平さん一家の様に僕の目には映りました・・・・高級外車で迎に行き、帰りは電車解散なんてよく言われるとこ・・・



それはさて置き彼は当時、数百万借金して、それでもやっと中古機材を集め独立を計ったが、土方しながら妻子2人の家族を養っているとの事でした。スコップを持っていると携帯電話が鳴って、葬式の撮影予約がはいる・・内緒で休んで行くの連続で困ってしまったと泣きが入ってました。もともと、僕が「いつまでも燻っていちゃいかんな俺たち」って独立そそのかしたのは僕だった。その事を彼がベロベロに酔っ払いながら嘆く様に僕も心を打たれました。やはり信じて付いてくる後輩は可愛い物です。


「ところで名刺とか持ってるのかぁ?」って僕が聞くと、彼はハッとして「い、いえ持ってません・・・」ななな、なんて可愛い奴でしょう(笑)・・・この日から電話やファックスによる作戦会議が連日の如く繰り返されました。名刺の作り方、営業先でどのような話題を持って行ったらよいか?全く1からみたいな部分から始まりました。「もう、ここまで来たら何とかホテルの担当者には何でも良い、子供と酒の話題でも世間話とかとにかくしてこい、とにかく顔出せ」などどいうな指示にも従順に彼は従ってくれました。元々彼は編集技術を得意とし、商売に関しては恐ろしいくらいに経営者のテクニックを吸収していましたので、なにか一歩の踏み込みか助力があればって・・・つくづく感じました。


ある日、僕は以前彼と一緒に、独立に関して協力する企業がないかチェックしていた事を思い出しました。居ました居ましたぁ!

僕らのインタビューに快く応じ脈有りな人物が・・・そしてその街の構造上可能性大と思われる企業が・・すぐさま僕は「その街ならあそこへ行け」って彼に言いました。その辺り若干、S理論応用編ですか、それが大ヒットでした。かれは幸運にも大部分の結婚式場に入っている贈答品会社の中にワンセクション別会社を作ってもらい、そこの専務兼任となりコンスタントに仕事を得る事に成功したのです。これには何とも嬉しかった・・・・・。しかも、彼の良いところは、それに止まらなかった。かれは元々アルバイト出身だから人の使い方も上手だった。それから約一年ちょいで学生中心だがアルバイトの数は十人まで増えました。そして、その若く有望な功績を買われローカルのテレビ局の下請けにも成りました。もう、大丈夫って感じ、そしてこの時の彼の報告に僕は喩えようのない心の平安と希望に包まれました。


後輩W太は連日ベロベロに酔って電話してくる物だから、僕もかなり寝不足するくらいでしたが、全然ヒマな時期だったので助かりました。彼は言いました「Junさんさぞかし繁盛してるんでしょう」僕は「いいや、全然良いトコまで上ってもガタンと崩れるんで、みんな不思議がってるよ」・・・・かれは又、こう言ってくれます。


「Junさんなら絶対今にやる。絶対いける」って・・のぼりかけては崩れる僕の仕事。これには実力やおつむの弱さ意外に、根本的な深い原因があると思われる部分も存在します。

僕が寝不足しながらでも、後輩に一生懸命になれる理由は可愛さと、他にも冒頭に述べたとおり色々ありますが、こうなるに至った大きな原因がありました。



それは、今を去ること8年以上前、自分にとって重大な出来事がありました・・・。
僕が独立を始めた切っ掛け、実にそれは人々に祝福されるような華やかな出来事では有りませんでした。ある女性の企てた罪を全面的にかぶって、僕は勤めていたある会社を去りました。その後その人とすぐに結婚しました。その時は彼女の将来や夢を潰したくない一心やら、その身内を悲しませたくない気持ちもありましたが、僕は親を亡くし身内が少なくなった事もあって、その辺自分の事は捨てばちっぽくも考えていたりもした、複雑な心境でした。しかし、それより後で反省すべき尾を引きずる様な点はそこから沢山生まれました。


一カメラマンとして、あまりにも理不尽な使われ方に、嫌気がさしていたのも事実です。それを正義感に絡めてしまった様な一種の逃げの様な罪悪感がのこりました。逃避・・・これは後からもじっくり自分の中で研究したいと思います。


然し、それ以上に・・・・・

その弐へ続く・・・・






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Last updated  March 20, 2006 08:41:59 PM
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