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カテゴリ:シナリオ
首都圏に住んでいる高校の同級生3人が喜寿を迎えたことを契機に始めた街歩き。 首都圏を中心に歴史探訪や文学散歩を楽しんでいます。今回は明治の時代に西の 神戸商館街に対して、東の研究学園都市と言われた異国情緒あふれた街、築地・ 明石町が舞台です。 ヒデ:築地は開幕54年後の明暦の大火後に、築地本願寺の移転先として造成さ れた場所だ。当初は寺町だったが、その50年後には播州赤穂藩の上屋敷 など大名屋敷が並ぶ格式ある場所となった。しかし、明治になって武家屋 敷は解体されて外国人居留地となり、必然的に築地は異文化との交流が盛 んな街となった。特にこの明石町は外国人居留地の中心地で「○○の発祥の 碑」が多く残されていて、文明開化をけん引した往時を史跡から偲ぶこと ができるんだ。 ヤス:事前に説明資料をもらっているけど、30ヵ所以上も史跡を巡るんだね。 これ全部を回れるのかい。 ノブ:狭いエリアに密集して「発祥の碑」が残されているのは築地と横浜だけだ そうだ。この場所ならこの位あっても当然だよ。ここには前から来たかっ たんだ。 ヒデ:今日は数多くの史跡を巡るけど、君たちの脚なら疲れることはないと思う ぞ。配布資料には各史跡の説明や誕生の背景を紹介しておいたから、そこ は簡単にして案内の中心を江戸・明治期に生まれた出来事と現在を結びつ けて話を進めたい。 地下鉄築地駅をスタートした一行は「活字発祥の碑」に向かいました。ここでは ヒデさんが解説に特に力を入れた史跡を抜粋して記します。 全部は書き切れませんから・・・ ヒデ:これが「活字発祥の碑」だ。「築地体」のフォントで書かれている。今の 新聞で使われている活字はこの字を発展させたものだ。幕末の長崎で、オ ランダ通詞・本木昌造が日本語の金属活字を開発した。彼は活字の父と呼 ばれている。その弟子の平野冨二が明石町に進出して活版印刷と印刷機械 の製造業を興し大成功した。今でも築地は印刷と出版が地場産業なのだ。 平野冨二はその後石川島造船所の創業など、渋沢栄一や岩崎弥太郎に並ぶ 大実業家になった。山手線の第1期工事も請け負っている。 ヤス:明治には新聞・雑誌の発行も始まったし、学校・病院などからの需要もあ ったんだろうね。居留地は印刷業にとって時流に乗るのに最適な場所だっ たんだ。 ヒデ:その背景は大きいと思う。次は「桂川甫周屋敷跡」だ。江戸中期に杉田玄 白らと「解体新書」を翻訳しているが、奥御殿医として将軍に顕微鏡の講 義をしている。光学顕微鏡では光の波長以下のものは見ることができない。 その時代が100年以上続いたんだ。だが2014年と2017年にその壁を破っ た顕微鏡が製作されノーベル化学賞を受賞している。江戸中期に顕微鏡の 活用に着目し、その使用法を著し、講義した人がいたことを知ってほしい。 次はミッション系スクール発祥の碑だ。この居留地は当初商館誘致が目的 だったが、売れずに値下がりしたところへ解禁されたキリスト教団体が入 ってきた。彼らは布教だけでなく、自前の病院や自前の学校を創設した。 この地には青山学院・立教・明治学院など私学の雄が13校も創設された。 ミッション系以外でも慶應義塾・工学院もこの地が発祥の地だ。資料に私 が見つけた12校の発祥の碑の写真を載せておいた。今、足元にあるのが その内の一つ、立教大学の発祥の碑だね。ここに立っていると学生たちの 声が聞こえるようだ。 ノブ:資料には病院の創設も書かれているから、まさに日本最初の研究学園都市 だったんだ。 ヒデ:異国情緒豊かな街だったと思うよ。次は「蘭学事始めの碑」だ。江戸中期 に中津藩医師前野良沢などがオランダ解剖書を初めて読んだところで解体 新書の碑がある。ここには「日本近代文化事始の地」と書かれている。 江戸後期になるとここで福沢諭吉が蘭学塾を開いた。「蘭学の泉はここに」 の石碑が並んでいる。慶應義塾大学発祥の地だね。近くにシーボルト像が 「江戸蘭学発祥の地」の記念碑として設置されている。娘の「いね」はこ の地で産院を開業しているよ。 ヤス:現在、学校としては聖路加国際大学だけしか残っていないね。聖路加と言 えば、今年亡くなった日野原重明先生を忘れてはいけない。よど号ハイジ ャック事件の人質になったり、地下鉄サリン事件では病院あげての治療に あたってくれた。生涯現役を貫いた医者で、後年はエッセイストとして新 聞に掲載していたね。 ヒデ:その通りだね。さて、創設された学校だけど関東大震災で街全体が瓦解さ れて、みんな転出したんだ。震災がなければ神戸のような街並みが今も残 っていただろうね。次は「指紋研究発祥の碑」だ。宣教師ヘンリー・フォ ールズは個人識別に指紋が使えることをこの地で発見し、ネイチャーに投 稿した。きっかけは大森貝塚から発掘された土器の古代人の指紋と日本人 の指印習慣だった。指紋から犯人を割り出した逸話が残されている。 そして、ここが「電信創業の碑」だ。横浜裁判所から築地運上所までの32 キロメートルの電話線が架設された。これが日本最初の公衆電話通信だ。 ノブ:指紋研究はここが研究学園都市の機能があった成果の一つかもね。それに 電信創業の地と言うことは、ここから電線と電信柱が立ち並ぶ、東京の街 並みが始まったということだな。ここが最初に選ばれた理由は何? ヒデ:次の「運上所跡の碑」に関係する。運上とは取引税のことで、江戸時代に 使われた言葉で後に税関となった。ここは東京税関の始まりだ。電話線の 設置は運上所でのトラブルの迅速な対応が必要だったからだ。 さて次は「海軍経理学校跡」「軍艦操練所跡」だ。共に海軍施設の一つだ ね。日本海軍は勝海舟が生みの親、海軍大将・山本権兵衛が育ての親と言 われている。日本海軍は戦後に解体されて71年間の幕を閉じたが、この間、 築地は「海軍さんの街」とも呼ばれていたんだ。実はここで日本初の運動 会があって豚の尻尾に油を塗って、その尻尾を捕まえる競技もあった。 盛り上がっただろうね。運動会は今にもつながっている。最後は「築地本 願寺」だ。移設以来同じ場所にある。今見られる古代インド様式の大寺院 は日本建築界の父と称される伊藤忠太の施工だ。 ヤス:確かに33ヵ所の史跡を3時間で回ってしまったね。ここにある史跡は江戸 中期の蘭学事始めから大正の築地小劇場までと時代幅が広く、内容も多岐 に渡っていて面白かったよ。 ノブ:これだけ多くの多様な発祥の碑があるんだね。明石町は確かに文明開化を けん引した街であることに納得した。今度は横浜の発祥の碑めぐりがした くなったな。 ヒデ:せっかく築地にいるんだから、すし屋で忘年会をして帰ろう。 来年も歩こうや。 紹介しきれなかった発祥の碑を羅列します。 (1) 築地小劇場跡:関東大震災後にできた新劇の常設館 (宇野重吉・杉村春子他) (2) 土佐藩築地邸跡:山内容堂・坂本龍馬などがいた。 (3) 新富座跡:明治時代にガス灯を使用した近代的な劇場 (4) 靴製造業発祥の碑:革靴の製造工場を開始した記念すべき土地 (5) 浅野内匠頭邸跡:吉良邸討ち入り後、47士はここを経由して泉岳寺へ (6) 芥川龍之介誕生の碑:芥川賞・直木賞は常にマスコミに取り上げられる。 (7) アメリカ公使館跡:現在の赤坂の前はここにあった。 (8) トイスラー記念館:明石町の歴史の一端を伝える文化財 (9) ガス街灯柱:東京の都市ガス事業はここから始まった。 (10)月島の渡し跡・かちどきの渡し跡・勝鬨橋資料館 (11)八紘一宇の碑:海軍の国旗掲揚等の標語 (12)日本点字制定の地:明治23年に東京盲唖学校の石川倉次によって、 6点式点字が考案された。 (13)築地木村屋ベーカリー:アンパン発祥の地。日本パン文化の礎。 (14)吉野家:牛丼の老舗 波除神社に石碑がある。 (15)築地ホテル館:日本で初めての本格的な西洋ホテル。(現存していない) 明石町にはこれだけの史跡があるのです。史跡めぐりに関心のある方は是非お立 ち寄りください。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017.12.18 17:20:00
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