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カテゴリ:スピリチュアル
今日の屋久島は、曇っている。
今にも雨が降り出しそう。 海も白波が立っている。 今日も、えっちゃんにモデルになってもらおう。 一般人代表のえっちゃんは、モデルにピッタシ。 昨日、次のようなコメントが書き込まれていた。 「>人生はコントロールゲームなんだよ。 >自分を守るために他者を支配する。 本当に、改めてびっくり! 支配、コントロールだらけ。 私が、せきせきコメントでびっくりして、その後、しんど過ぎ~~とブーたれたのを恥じて、朝、ごめんねコメントを書いたのも、考えようによってはコントロール。 ブーたれおばさんと思われたくなくて、せきせきさんの心証を良くしたいと、ごめんねという。 これはもう、しっかりコントロールですよね。 ・・・うっかりごめんねも言えないじゃないか。 恋愛なんてまさに支配。 「愛しています」というのは、ほとんどの場合、「だから私を愛して」という意味を含んでいる。 コントロールですね。 こわもて風に言うと、まさに支配です。 「愛してるネン。だから俺の事も愛さんかい!」 強制みたいになる。 キリストさんが言ったのか、教会が言ったのか、信じるものは救われる・・・。 救って欲しかったら信じなさいという支配。 この後のコメントの所で、ハートや愛に実感がないと言ったのは、愛というものを疑ってかかってるのかも知れない。 ハートが開くと沸々湧き出る愛は、本当に無垢の愛か? 無垢の愛など存在しうるのか? 条件付愛とか、相手にも見返りを望む愛とか、そういうものなのではないか? 親の愛は無償の愛というけれど、それを子供がわずらわしいと感じたら、その愛は、コントロールの愛と成り果てないか・・・??? 無垢の愛に出会ってみたい・・・ えっ?kimiさんの愛は無垢の愛?・・・ 何にしても、愛の時代なんでしょうね。 天皇家の愛子様しかり、スポーツ界のトップランナーも、今まさにアイの時代、ゴルフ、卓球、スキー・・・と。 ますます愛の時代になっていくのでしょうね。 こんな私でも、無垢の愛に出会えるでしょうか?」 たくさん問題提起してくれている。 嬉しくて涙が出そう。 人類史の大半は、支配とコントロールの歴史と言えなくもない。 自己保存の本能から、相手を支配しようとする。 自分の安全を確保するために、相手をコントロールしようとする。 それは単純に力で抑えつける場合もあれば、下手に出て気づかれないようにコントロールする場合もある。 それは種族間、国家間、グループ間を問わない。 多くの人間関係も、この範疇に入る。 人は自分を守るために、周りを支配しようとする。 それは男女間の駆け引きでも見られる。 相手を自分のものにしたいという思いは強い。 最初は純粋な恋愛も、やがてコントロールゲームになる場合が多い。 自分のものにするために、あの手この手が駆使される。 甘えてみたり、すねてみたり、引いてみたり、押してみたり・・・ 恋の手練手管には事欠かない。 それもこれも全て自分のものにしたいから。 支配したいからに他ならない。 もちろん、もっと純粋な恋愛もあるだろう。 しかし、恋愛は執着に変わりやすい。 最初は純粋にエネルギー的に惹かれ合う。 ところが、時間が経つにつれて、そこに思考が介入する。 思考は、変わることのない愛を要求する。 そこから苦しみが始まる。 この世に変わらぬものはない。 魅力は失せ、情熱もやがて弱まる。 いつも一緒にいれば、そのうちに飽きてしまう。 熱はいつかは冷める。 その後は夫婦間の駆け引き。 別のコントロールゲームとなる。 人類史、そして世界の現状も、支配・被支配のコントロールゲームに他ならない。 それは国家間に限らない。 家族の中も男女の間も、さして変わりはない。 人間関係全般がそうとも言える。 なぜなら、自己保存の本能と思考がドッキングし、自分最優先が今の世のパターン。 自分優先主義がまかり通る限り、世界は変わらない。 それは社会の隅々にまで浸透している。 では、無垢の愛は存在しないのだろうか。 「愛」という名のスターは輩出している。 にもかかわらず、無垢の愛はあり得ないのだろうか。 kimiさんの愛は無垢の愛? はたしてどうだろう? まず、kimiさんの愛は無垢の愛と信じてみる。 そうすると救われるだろうか。 もし無垢の愛でない時は、妄信・狂信となって人生を狂わせるかもしれない。 自分だけでなく、多くの人に迷惑をかけることになるかもしれない。 では、最初から疑ってかかることにしよう。 しかし、もし無垢の愛であった場合、疑うことによって、それがわからなくなってしまう恐れはないだろうか。 色眼鏡で見れば、透明な愛も色が着いた歪んだものに見えてしまう。 では、どうすればいいのだろうか。 信じれば、危なくなる。 疑えば、怪しくなる。 信じることも疑うことも先入観となる。 最初から先入観を持って見れば、ありのままの事実は見えない。 信じることも疑うことも必要はない。 ただ白紙の状態で事に臨めばいい。 その時だけ、ありのままの事実が見える可能性がある。 お釈迦様やイエス・キリストに会った人は、みながみな無垢の愛を感じることができただろうか。 残念ながら、歴史的事実は、そうではないことを告げている。 目の前に無垢の愛があったとしても、それを感じられるとは限らない。 先入観をもってまみえれば、無垢の愛はないに等しい。 固定観念や偏見がある限り、無垢の愛は感じられない。 心が閉じていれば、無垢の愛といえども届かない。 それは無垢の愛に限ったことではない。 全てについて言えること。 一切の先入観を外して、ただ事実と共にいる。 白紙の状態。 ゼロの状態。 ニュートラルな状態。 その時にのみ、真実が見える。 何もない。 空っぽ。 何も所有していない。 つまり、「私」がない。 その時にだけ、ありのままの事実が知覚できる。 そうでない限り、全ては自我を通した認識となる。 つまり、自分ワールド。 思い込みワールド。 思い込みワールドに住んでいる限り、真実はわからない。 全て自分の都合のいいように解釈しているだけ。 解釈、判断、認識、全てが主観=自分ワールド。 そこには客観の欠片(かけら)すらない。 自分流に受け止め、自分流に解釈し、自分流に判断し、自分流に決断する。 お互いが自分の世界に住んでいる限り、真に交わることはない。 一人一人が自分ワールドという孤独な城に居住しているに過ぎない。 何が真実かを見極めるためには、自分ワールドの外に出るしかない。 一切の判断や解釈をやめ、ただ黙って見守る。 事実を見極める。 それは簡単な道ではない。 すぐに思考が動く。 すぐに、いつものように現実を自分ワールドに引き込もうとする。 自分ワールドに安住し、自分ワールドから出ようとはしない。 なぜ? そこは安住の地。 自分が守られているところ。 高い壁を造り、外敵を遮断してあるところ。 自分のベース。 自我の源。 最後の砦。 道は遠い。 果てしなく遠い。 気が遠くなりそうだ。 自我のジャングルに一歩足を踏み入れると、そこは複雑に入り組んだ思いや感情の迷路。 それらのジャングルを整理し、見通しのよいものに変えることが、はたしてできるのだろうか。 できるという保証はない。 しかし、できないという保証もない。 いかなる保証もない。 人は安全の保証を欲しがる。 しかし、この世に絶対安全などというものがあるだろうか。 全ては変化している。 変化しているものに絶対はない。 どこにも保証はない。 それが事実。 その事実と共に生きていくことができるだろうか。 「無垢の愛[2]」に続く お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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