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カテゴリ:スピリチュアル
今日の屋久島は、暖かい。
もう冬は終わったようだ。 春直前という感じ。 電話をする。 相手の声が聞こえる。 最初の一声で相手の状態がわかる。 心地よい波動。 それだけ。 直後に、思考が、なかなか良い感じだと囁(ささや)く。 相手の状態を判断し、いろいろ解説してくれる。 言語化とは、そういうものだ。 ただそのものを聞いていれば、その波動が伝わるだけ。 そこに思考が動いて、価値判断を付け加える。 そのものを感じたければ、ただ黙って感じるしかない。 言語化しないで、そのものと一緒にいる。 言語化した途端、思考が介入する。 判断、解釈、評価・・・ 何かを形容すること自体が既に解釈とも言える。 美しい・醜い、すごい・つまらない、上手(じょうず)・下手(へた)、好き・嫌い、良い・悪い・・・ 言語化した途端、同時に価値判断が入ってしまう。 しかし、言語化しなければ伝えることはできない。 しかし、言語化すれば、そのもの+αを伝えることになる。 いや、そのものとは別のものに変わってしまう場合もある。 言語化されたそのもの。 それは、そのもの自体とは異なる。 「美しい牛」という言葉は、見た人の主観。 そして、受け取る人にとっての「美しい牛」もそれぞれ異なる。 「牛」という言葉自体、大きな牛をイメージする人もいれば、子牛をイメージする人もいる。 オレンジ色の牛を思い浮かべる人もいれば、白黒の牛を思い浮かべる人もいる。 「美しい」に至っては、それこそ千差万別。 これだけ各自のイメージの差があって、よくコミュニケーションが成り立つものだ。 だからこそ、誤解や行き違いが生じるとも言える。 まず伝える側の思い込みや先入観がある。 受け取る側にも別の思い込みや先入観がある。 事実がそのまま伝わっているという保証はどこにもない。 それが言葉によるコミュニケーションの難しさ。 しかし、現在のところ、それしかコミュニケーションの手段がないので、気をつけておこなうしかない。 言葉の効力と限界を理解しながら。 お互いの思い込みに注意しながら。 この日記にしても、書き手の主旨がそのまま読み手に伝わっているという保証はない。 書き手の中にあるイメージと、読み手の中にあるイメージは明らかに異なる。 「美しい」という言葉一つとっても、お互いの使い方は同じではない。 個々の言葉のイメージは各人で違う。 しかも、伝えたい内容が極めて複雑ときている。 ハー、絶望的? と、まあ、悲観的になっても何の意味もない。 言葉によるコミュニケーションの限界はあるものの、伝わっているものもある。 個々の言葉に引っかかって自分流に解釈して受けとめられることもあるが、明らかにわかってもらえていると実感できる時も多い。 できれば、個々の言葉を超えた伝えたい主旨を受けとめてもらえたらと思う。 この日記で何を言いたいのか、その内容を感じ取ってほしい。 個々の言葉は個々人で使い方の差があるので、あまりこだわらない方がいい。 それよりも主旨、何を伝えたいのかを感じ取ってほしい。 何を伝えたいのだろうというスタンスで読むといいかもしれない。 最近の日記には、最後に短歌が添えられている。 これはその日の日記のエッセンスみたいなもの。 時間がない時は、これだけ読むという手もある。 できれば全文を読んでほしいけれども、なにしろ長いので、短歌だけ何度か読むという方法も有効かもしれない。 それによって伝わるものもあるだろう。 書いている卵の黄身氏は、最低でも2回以上は読んでいる。 込み入った内容になると、10回以上読み直すこともある。 キーボードから入力したものをプリントアウトして校正する。 赤いボールペンを片手にチェックしていく。 最低でも、それを2~3回は繰り返す。 しかし、自分で納得できないと、その回数がどんどん増えていく。 校正すればするほど、シンプルになるのは間違いない。 しかし、やがて頭が疲れてしまう。 そこで日記としてアップすることになる。 書いている本人が一番読み込んでいると言いたいところだが、たぶん、ぴあのさんの方がそれ以上に読んでいるだろう。 彼女もプリントアウト派。 サインペンでチェックしながら何度も読み返しているらしい。 そうでないと、あの日記のエッセンスのような写真ブログ(いのちの島=屋久島)の言葉は出てこないだろう。 本当は他の人にも何度か読み返してほしいと言いたいころだけれども、なにしろ長いので、それはご自由に。 理解できれば一度だけでいいし、理解できなかったら何度か読み直してみると、よりわかるかもしれない。 言葉は、イメージ。 個々の言葉のイメージは各人によって異なる。 だから、個々の言葉にはできるだけ囚われないで、全体の主旨を読み取るように心がけてほしい。 伝えたいものは個々の言葉ではないわけだから、伝えたいものを的確に受けとめてほしい。 これはこの日記を読む時だけではなく、他のものを読む時にも適用できるだろう。 また、他の人とのコミュニケーションにも活用できる。 言葉にこだわらない。 相手の主旨を受けとめる。 相手が伝えたいことを受けとめてあげる。 そういう気持ちでコミュニケーションすると、お互いの意志の疎通がよりスムーズになるだろう。 相手の言いたいことをわかろうとするスタンスと、なんとなく聞いているのとでは、天と地ほどの差が出てくる。 まして、自分の立場に固執して聞いていれば、相手の伝えたいことは伝わらない。 個々の言葉の持つニュアンスには個人差がある。 そこに引っかからないことだろうか。 それを超えたところで理解するように努めることだろうか。 人は、ややもすると自分の土俵で受けとめようとする。 自分のパターンに引き込んで解釈しようとしがちだ。 ありのままを理解しようという準備のできている人は少ない。 いつも自分の受け入れやすいスタンスでスタンバイしている。 自分流に解釈し、自分流に判断する。 よほど気をつけないと、ありのままを感じたり、理解するのは難しい。 何ものにも引っかからない。 何ものにも囚われない。 主旨をよーく感じてみる。 言葉以前の、そのエネルギーを感じてみる。 言葉に翻訳することは、思考を通して物事を見ていること。 言葉以前のものを感じるように心がけると、また違った景色が見えてくるかもしれない。 『言葉より 言葉の奥に あるものを 耳を澄まして 受けとめてみる』 『全体の 主旨を静かに 受けとめる 言葉に言葉で 反応しない』 これが417日目の心境です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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