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農家の長男として生を受けもはや56年になる、
当然のごとく、高校は農業科を受験した、一年先輩は3倍近い 倍率で難関だったため、違う科を薦められたほどだった。 我が三女が小学一年生のとき農業科出身と話したら 「えっ、お父さんてバカだったの」と言われたことはショッックだった。 当時は町内の至るところに、「宮城米一割増産」「牛乳一割増産」 「まゆ一割増産」などの看板が立っておった。 クラス46名中43人が長男で、二人が兄が亡くなった人、 残る一人は「将来酪農家に養子になる」といい、 現実に大きな酪農家のお婿さんになっている。 当時は水田で生きようか、畜産で生きようか、複合で生きようか 大いに悩み議論もした。 ところが高校三年の卒業を目の前にし減反政策が始まり、 多くの同級生が就職組みとなった、 わたしは農業自営の道を選択したが、さまざまな誘いやコネをけったことを 後で悔やんだ。 その後はわたしも勤め人となり、8年前また自営にもどった。 米価は40年前の価格になり、もっとひどい木材は実質100分の1まで落ちた。 中国餃子に揺れ、国産農産物の争奪戦が繰り広げられておるが、 価格は人を馬鹿にしたようか値だ。 思えば農業がもてはやされたのは、 戦後の農地解放より昭和40年代かせいぜい50年代はじめまでであったろう。 江戸時代より「百姓は生かさず殺さず」の風潮が今も息衝いている もう始まってる食糧難時代、 農業が見直される時代が来ても、農家が見直される ことは期待できない。 地区や家族ぐるみで増産を目指した時代が懐かしい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.02.15 11:12:58
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