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カテゴリ:里山ウォーキング
回天の道を歩いたのは21名の皆さんでしたが、午後の部の清川歴史の旅には10名の皆さんが参加して頂きました。案内は、庄内町地域おこし協力隊員であり、きよかわ観光ガイドの会会員でもある玉越宏さんが務めてくれました。
▼ 大まかに歩いたコースを紹介します。 出発は清河八郎記念館➡戊辰戦争清川口の古戦場➡官軍墳墓➡龍神の碑➡金華山歓喜寺➡御諸皇子神社➡清河八郎記念館に戻って閉会式でした。時間的には約90分歩いています。 ▼ JR陸羽西線の地下歩道に掲示されている、毎年8月18日に行われる御諸皇子神社例祭での山車行列を紹介した写真の説明を受けています。 ▼ 【戊辰戦争古戦場】 立谷沢川と最上川の合流地点です。慶応4(1868)年4月24日早朝に立谷沢川右岸の腹巻岩に官軍が陣を構え、御殿林に庄内藩が本陣を置いて戦った戊辰戦争清川口の戦いについて説明を受けています。 ここで玉越さんから問題が出ました。 問1:両軍が陣を置いた腹巻岩(官軍)~御殿林(庄内藩)は直線距離で500m以上ありました。何を見て敵味方を見分けたと思いますか。 答えは一番最後に発表します。 ▼ 【官軍墳墓】 清川口の戦いは、午前中は官軍有利の戦いでしたが、午後になり狩川の農兵が山を越えて駆けつけると官軍が劣勢となり新庄へと退却します。その時に残された若い長州藩士2名の屍を清川の人々は敵と言えども温かく弔い、官軍が本陣を置いた腹巻岩を望むことが出来るここに墳墓を建立したものです。 ▼【龍神供養塔】 今は護岸が整備され反乱する不安も無くなった立谷沢川ですが、昔は暴れ川であり、人々が洪水を鎮めようと雨を司る龍神を祀った碑が沿川の集落には数多く残されています。その一つが清川にも残っています。 ▼【北楯大堰】 平成30(2018)年に「国際かんがい排水委員会」から「世界かんがい施設遺産」に認定された世界的に貴重な幹線用水路です。 この用水路は、最上義光の家臣で狩川城主の北楯大学助利長が慶長17(1612)年に立谷沢川から取水する工事に着手し、1日約7,400人の作業員を動員するなどして約10kmの用水路を僅か4ヶ月で完成させたのが起源となっています。 ここで玉越さんから問題が出ました。 問2:すぐ傍に最上川が流れているのに、どうして水を引き込みことが出来なかったのでしょうか。 答えは一番最後に発表します。 ▼【荘内藩士墓碑】 戊辰戦争清川口の戦いで亡くなった荘内藩士や地元清川の農兵の墓について説明を受けています。 ▼【清河八郎生家墓地】 金華山歓喜寺の境内にある清河八郎の生家齋藤家の墓地であり、八郎と妻お蓮の墓碑も建てられています。八郎の遺骨は東京都小石川にある「伝通院」に埋葬されていますが、母のたっての願いにより歓喜寺境内にも建立されています。 ▼【隋神門(仁王門)】 源義経一行が兄頼朝から追われ奥州平泉に逃れる際に、一夜を過ごしたと云われている「御諸皇子神社」へ向かいます。入り口の隋神門には二体の金剛力士像が安置されています。 通常神社の守り神は狛犬で、金剛力士像は寺院の守り神ですが、清川では神仏習合の名残りをみることが出来ます。 ここで玉越さんから問題が出ました。 問3:金剛力士像に付着している白いもの(虫の様にも見える)は何でしょうか。 答えは一番最後に発表します。 問3:金剛力士像に付着している白いもの(虫の様にも見える)は何でしょうか。 答え:紙つぶてを体の具合の悪い所に付けて、病気などが治るように祈っていたと言われています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年11月06日 10時37分14秒
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