潘基文氏は国連で何をしたのか その1 2 3
投稿日:2016/9/15Japan In-depth 潘基文氏は国連で何をしたのか その1 あだ名が「ヌルヌルのウナギ」古森義久(ジャーナリスト・国際教養大学 客員教授)「古森義久の内外透視」国連事務総長のポストにここ10年近く就いてきた韓国人の潘基文氏がまもなく退任する。韓国政府元外交官の潘氏は国連事務局のトップとしてこれまで複雑な波紋を何度も広げてきた。だが、よい波紋というのはまずなかった。流れてくるのは潘氏のいかにも国連トップにふさわしくない無能ふうな言動、ゆがんだ挙措を投射する情報ばかりだった。8月のリオデジャネイロでのオリンピック開会式で潘氏が居眠りをしていたという報道もその氷山の一角だった。潘基文国連事務総長とは一体なんだったのか。国連にどんな影響を及ぼし、国際社会にどんな軌跡を残したのか。わが日本にはどんな余波を与えたのか。いくつかの視点から潘基文総括を試みよう。日本にとっては単に国連外交だけでなく、対外関係全般にこの隣国出身の人物が国連という組織を通してぶつけてきた波風の数々はときには国益の核心までを揺さぶる悪影響があったのである。だからこそその人物の記録の検証には二重三重の意味があるといえよう。潘基文事務総長を診断する際には少なくとも二つの視点がある。第一は国際連合という舞台での基準、つまり国際的な尺度からの検索である。第二は日本という基準、つまり日本の対外関係にとって、あるいは対外的な利害から考えて、という視点である。まず総括の結論を先にあえて述べるならば、この第一、第二いずれの視点から判断しても潘氏は国連の歴史でも最低の事務総長だった。とくに第二の視点の日本の外交、対国連政策からみれば最悪中の最悪、きわめて有害な事務総長でさえあった。ただし皮肉な見方もできる。潘氏の非常識な言動は期せずして日本の対国連認識のゆがみの是正に貢献したともいえるのだ。彼の無能や偏向ぶりがあまりに露骨だったことにより日本国民一般から一部政治家、官僚の間にまで根強かった長年の国連幻想を突き崩す効果をもたらしたことだといえよう。日本の空疎な国連信仰は東京の青山にそびえる国連大学なる奇怪な組織への異様な優遇に象徴される。さらには小沢一郎氏らが唱えた日本の安全保障を国連にゆだねるという危険な「国連中心主義」も自国を守る政策としては異常としか表現できない。そのような国連への虚構の信じこみを潘事務総長のお粗末な言動が奇しくも目覚めさせてくれたような効果もきっとあるだろう。さて潘氏の国連事務総長になるまでの経歴を簡単に述べておこう。韓国中央部の農業地帯、忠清北道で1944年6月に生まれ、現在は72歳、ソウル大学を卒業して1970年に韓国政府の外交官となった。外交部(外務省に相当)の一員として在外と本省との勤務を繰り返し、1980年には外交部からの派遣でアメリカのハーバード大学大学院に留学して、修士号を取得した。その後はアメリカの韓国大使館勤務や本省米州局長、国連大使などを歴任し、2004年には当時の廬武鉉大統領の外交通商部長官(外務大臣)に任命された。廬氏は親北反米の傾向の政治家で対米関係を悪化させたが、潘氏は苦労しながらも同大統領の対外政策をなんとか完全には破綻させないですませたという評価を得た。 潘氏は若いころからいわゆる努力型の秀才として知られたが、その一方、上司や周囲との調整能力の巧さで「官僚中の官僚」とか「ヌルヌルのウナギ」という呼び名をも得ていたという。潘氏が国連事務総長となったのは正式には2007年1月である。その一年ほど前に次期の事務総長選挙への立候補を表明した。2006年の当時、事務総長はガーナ人のコフィ―・アナン氏だった。アナン氏はアメリカで高等教育を受けた後、すぐに国連入りし、一般職員として長年、実績を重ねてきた。だが事務総長になってとくに後半の時期、アメリカ政府の反発を受けるようになった。反米的な言動が目立ってきたうえに、国連のイラク石油プログラムをめぐる汚職事件でアナン氏の息子の容疑までが浮かぶようになったのだ。このためアメリカの時のブッシュ政権はアメリカとのきずなの強い潘氏を支援するようになった。当時のアメリカの国連大使だったジョン・ボルトン氏は潘氏について「アメリカの政策への理解が深い」という支持理由を何度も語ってきた。投稿日:2016/9/16Japan In-depth 潘基文氏は国連で何をしたのか その2 ハーバード大留学でも英語が下手 古森義久(ジャーナリスト・国際教養大学 客員教授)「古森義久の内外透視」国連事務総長ポストは任期5年、大きな支障さえなければ再任が認められる。選ばれる人物の出身はヨーロッパ、中東、アフリカなど各地域を毎回、順番に変えていく慣習があり、韓国の潘基文氏が立った時はアジア地域からの事務総長が選ばれることが内定していた。だから潘氏の対抗馬はインド人の国連事務次長、タイ人の元副首相、スリランカ人の元国連事務総長だった。潘氏は2006年10月、国連の安全保障理事会、総会いずれの選挙でも最多票を得て、当選した。アメリカをはじめとする安保理常任理事国がみな支持したことが大きかった。ところがわが日本政府も早々と潘氏支持を表明していた。時の麻生太郎外務大臣は「アジアとして誇らしい」とまで述べて、潘氏の事務総長当選を歓迎したのだ。潘氏はこれを受けて「日本とは緊密に連携、協調していきたい」と語った。だが実際の展開は大きく異なったのである。潘事務総長は2012年には再任を認められた。だが潘氏のこれまで通算ほぼ10年に及ぶ勤務ぶりは酷評また酷評なのである。国際機関の代表を務める人物へのこれほど一致し、かつ徹底した悪評というのは珍しい。潘氏は国連が戦後にスタートしてから8代目の事務総長である。だがその8人のなかでもまったくの異端といえるほど、飛びぬけて評価が低いのだ。その潘氏への採点をまず前述の第一の視点、つまり国連での基準、国際的な尺度からみていこう。この視点での指摘も複数の領域に分けられる。まず第一は能力である。適性や資格の有無ともいえるだろう。潘総長は国連の内部報告でも「事務局を腐らせた」と批判された。2010年7月に国連事務次長のポストを辞めてすぐのインガブリット・アレニアス氏が「潘事務総長の実務、倫理の両面での指導能力欠落のために事務局自体が腐敗し、倒壊しつつある」という趣旨の報告書を作成したのだ。当初は内部だけの資料のはずのこの報告書の内容は外部にも流れた。「潘総長の国連の基本的政策に関する判断の曖昧さや、人事面での不公正が国連全体をも無意味、非効率にしている。潘総長のコミュニケーション能力にも深刻な欠陥がある」こんな容赦のない潘総長批判を明確にしたアレニアス氏はスウェーデンの外交官出身で国連勤務も長かった。2010年春までは潘氏の部下にあたる「事務次長」の要職にあった。だから潘氏に対する酷評は至近からの実際の観察に基づいていたわけだ。同様の内部告発は国連事務局に勤めた後、ノルウェ―の国連次席大使となったモナ・ジュール氏からも発せられていた。ジュール氏が2009年に作成した内部メモの内容が2年後に外部に出たのだ。「潘氏はカリスマ性をまったく有さず、国連、そして世界が直面する重大問題へのビジョンもない。きちんとしたリーダーシップもない。自分の気に入らないことがあると、すぐに感情的になって怒りを爆発させることも多い」要するに潘氏は国連事務総長という主要国際機関のトップとしてはある程度は持っていなければならないカリスマ性や指導性がまったくない、という指摘なのだ。こうした致命的とも響く非難が国連のなかでも客観的な立場を有するとみられるスェーデンやノルウェーの代表から表明されていたのである。潘氏の実務能力に関してこれまで一貫して強く指摘されてきたのは彼の英語能力の低さだった。この点、前述のアレニアス氏は「コミュニケーション能力の深刻な欠陥」と表現していた。アメリカ人の国際政治学者で国連にも勤務したスティーブ・シュレシンジャー氏も「私は国連事務局内部で潘総長の任命を当初は歓迎し、支援しようと努力したが、すぐに彼の英語でのコミュニケーション能力のなさに驚き、心配し、失望した」と述べていた。もっと率直なのは同じアメリカの国連研究学者のジェームズ・トラウブ氏による指摘だった。同氏は2010年夏、アメリカの大手外交雑誌「フォーリン・ポリシー」に寄稿した「お休みなさい、潘基文」という題の論文の冒頭で次のように書いていた。「2006年5月、潘基文氏が国連事務総長選への立候補を表明してすぐ、アメリカの『外交評議会』の集いに出て、デビューの質疑応答をしたのだが、私は潘氏の音調のない下手な英語と間の抜けた答えのために20分ほどで居眠りに落ちてしまった」トラウブ氏はちなみにこの論文で潘氏の総長在任は国連にとって有害であり、すぐに辞任すべきだとも訴えていた。いずれにせよ、「潘国連事務総長の下手な英語」というのはこの時期からその筋の間では共通の認識だったのだ。韓国出身とはいえ職業外交官でハーバード大学にも留学した人物が英語が下手というのは一般には信じ難い現象かもしれない。だが潘氏の英語の発言を実際に聞けば、納得できるというのが悲しい現実である。たかが外国語の習熟度だけで国際的リーダーの資質は決められないという反論もあるだろう。だが国連事務総長がまず国連での公用語を十二分に使いこなせないとなると、その機能低下は重大である。表現能力は国連の実務の核心部分ともいえるからだ。国連事務局側もその点には最初から懸念していた。複数の元国連職員によれば、「事務局も潘氏の最大の弱点は英語の流暢さの欠如だと認識して、同氏に週に2,3回、英語の発声方法やメディアへの英語対応の特別訓練を提供したが、あまり効果がなく、その結果、テレビでの発言は最小限にすることにした」のだという。英語の勉強をする現職の国連事務総長というのは、なにか悪い冗談のようにも響いてくる。投稿日:2016/9/17Japan In-depth 潘基文氏は国連で何をしたのか その3 縁故と偏向と古森義久(ジャーナリスト・国際教養大学 客員教授)「古森義久の内外透視」潘基文国連事務総長への採点評価での第二の基準は公正さ、である。国連事務総長としての中立性の有無ともいえよう。だが潘氏は総長としてのネポティズム(縁故主義)をも批判されてきた。まず潘氏が事務総長になってすぐ自分のスタッフや国連事務局高官として韓国人を大幅に優先して採用したことが指摘された。国連事務局での韓国のプレゼンスは従来それほど大きくはなく、潘氏の就任半年前の時点では韓国人の職員は54人だった。ところが潘氏が就任して一年ほどの間にその韓国人の数は66人へと急増した。一年ほどで20%の増加だった。新しい国連事務総長が登場すれば、その総長を輔佐する新しい補佐官などを総長の出身国から採用することは奇異ではないが、韓国の場合の二割増加というのは規範を越えていた。しかも新採用された韓国人たちは外務省など本国政府の高官が多く、国連事務局で新配置されたポストも枢要な地位が目立った。だから潘氏の過剰な縁故採用という批判も起きたわけだ。その結果、ニューヨークの国連本部ビル38階にある事務総長のオフィスは上級顧問職などに韓国政府出身者がとくに増えたうえ、オフィスの壁にはサムスン電子製の薄型テレビがびっしりと並べられたという。潘総長に対しては自分の義理の息子を不当に抜擢したという批判も浮上した。2013年末に潘氏の次女の夫、インド人のシダース・チャッタジー氏がケニヤのナイロビの国連人口基金のトップに任じられたことがその焦点だった。インドの軍人出身のチャッタジ―氏はそれまで国連とは直接の関係のない国際赤十字の本部に勤めていた。この抜擢ぶりが国連事務局内部で「縁故主義」の非難を招いたのだ。その他、潘事務総長の実績を「公正か、中立か」でみても、とにかく厳しい評価だけが浮かびあがる。前述のノルウェーの国連次席大使だったジュール氏のメモも、新総長が国連の本来の中立という基準を破り、偏向のあらわな特徴を総括して、次のように述べていた。「潘総長は最近のダルフール、ソマリア、パキスタン、ジンバブエ、コンゴなどでの危機に対しても気概のない、魅力もない対応しかできなかった。これら各地での紛争では国連はまったくリーダーシップを発揮できなかった。また潘氏は国連安保理の常任理事国に対してきわめて弱い対応しかとれていない。ところが中小国家だけの争いでは猛然と高圧的な言辞をときおり吐いたりする」さらにより具体的に潘氏への批判の実例を列記してみよう。米欧の外交専門家たちの多くは以下の諸点を潘総長の「制度的あるいは個人的な失敗」として指摘する。・スリランカで2009年に内戦が起き、政府側が反政府勢力を多数、殺したが、国連はその現実を熟知していても、なにもしなかった。その大規模な虐殺の黙視を非難されても潘総長はなにも答えていない。・ハイチで2010年に広がったコレラで現地住民9000人が死に、その伝染病の発生源は国連平和維持部隊の要員だと確認されたにもかかわらず、最高責任者としての潘総長はなんの責任を示す言動をとらなかった。・国連が中央アフリカ共和国へ送った平和維持部隊が2014年からの2年ほどの間に地元女性への性的暴力を続け、現地住民の恐怖を広めたが、責任者の潘総長は明確な対応策をとらなかった。・アフリカのエボラ出血熱は2014年に始まり、明らかに国連機関の対応の失態で拡大が増した。だが潘総長はその失態を認めず、伝染の拡大への新たな対応策を示さなかった。・潘総長は2016年1月にパレスチナのテロ組織の殺傷行為に理解を示す言明をして、イスラエルの激しい反発を招き、現地の紛争を結果的にあおった。 ・潘総長は同年3月、モロッコ政府が実効支配する西サハラ地区への訪問でその支配を「占領」と評し、モロッコを攻撃する「ポリサリオ戦線」の主張を全面的に認める形となった。調停役の国連代表としては失態だった。・潘総長はシリアのアサド政権が内戦で自国民を多数、殺しても、ロシアがウクライナのクリミアを奪取しても、いずれも「中立」の名の下に効果的措置をなにもとらなかった。以上のような実例には国連自体がいかに努力をしても効果があがらないという場合ももちろんあるだろう。だがいずれの場合でも潘総長は最小限の行動しかとらず、とくに国連安保理の常任理事国には批判的な言辞を決してぶつけないというパターンが定着しているようなのだ。