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テーマ:神(510)
カテゴリ:神の摂理
ナレーンドラは、ラーマクリシュナの下での5年に及ぶ霊的訓練の後、落ち着きのない、悩み多き性急な若者から、神を悟るために一切を放棄する準備ができた成熟した男性になるまでに成長を遂げた。まもなく、ラーマクリシュナの最期が、喉頭がんという形で1886年8月15日に訪れる。ナレーンドラが23歳のときの出来事であった。
その後、ナレーンドラを含むラーマクリシュナ・グループの中心となる弟子達は、僧になって一切を放棄するという誓いを立て、バラーナガルの幽霊が出そうな家に住み始める。彼らは、ラーマクリシュナの弟子で富豪でもある家主によって、食事その他の生活の施しを受けることとなる。 インド国内を放浪 バラーナガルの若い僧の心に、ボロ着と托鉢椀だけを持った流浪の生活を送りたいという欲求が生じてくる。1890年7月にヴィヴェーカーナンダは、行く当てのない放浪の長旅に向けて出発した。彼は、インド亜大陸の至るところを放浪する。 この間、ヴィヴェーカーナンダは、ヴィヴィディシャーナンダ(サンスクリットでは、ヴィヴィディシャーは「知的欲求」を意味し、アーナンダは「至福」を意味する)、サッチダーナンダなどの名で呼ばれる。その頃に、彼の事物への鋭い洞察力のために、ケートリーのマハーラージャによってヴィヴェーカーナンダ(識別する者)の名が授けられたという。 このさすらいの日々に、ヴィヴェーカーナンダは貧民の小屋から王の宮殿まで様々な場所に滞在した。彼はインドの様々な人々に親密に接し、異なる宗教の文化と交流した。ヴィヴェーカーナンダはこの旅でインドの荒廃を目に焼き付ける。カースト制度がインドの社会に不平等をもたらしている。更に物質の貧しさが悲惨な状況を作り出しているのに、観念的な教えばかりを説くインド人が多い。ヴィヴェーカーナンダは心の教えだけを説く無益を悟る。社会的実践が必要だ。社会の平等を西洋に学ぶべきだ。西洋は精神的な教えをインドに学ぶべきだという信念が生まれた。 カンニヤークマリのヴィヴェーカーナンダ岩1892年12月24日、彼はインド亜大陸の最南端のカンニヤークマリに辿り着く。そこで、彼は海を泳いで渡り、ぽつんと聳え立つ岩の上で瞑想をし始める。彼はそこで3日間、インドの過去、現在、未来について沈思黙考する。その岩は、今でもカンニヤークマリのヴィヴェーカーナンダ記念の岩として残っている。 ヴィヴェーカーナンダは、マドラス(現在のチェンナイ)へ行き、インドとヒンドゥー教についての展望を青年たちに話す。彼らは感動して、彼にアメリカのシカゴで開催される世界宗教会議のヒンドゥー教代表として出席するよう懇願する。実は、ヒンドゥー教代表への招待状は、バースカラ・セートゥパティとラームナードのラージャーに対してのものであったが、彼らはヴィヴェーカーナンダを送り出すことを決断する。チェンナイの彼の友人、バースカラ・セートゥパティ、ラームナードのラージャーとケートリーのマハーラージャーらの援助により、ヴィヴェーカーナンダは米国へ渡航することとなった。 西側諸国を外遊 1893年5月31日(当時30歳)、ムンバイを出港しセイロン、ペナン、シンガポール、香港、広東を経由し日本の長崎に入港、長崎から大阪、京都、東京を経由し横浜港からアメリカ・バンクーバーへ渡り、7月中旬、ようやく汽車でシカゴに到着した。 そして同年9月11日、世界宗教会議第一回集会は始まった。出席者は多かったが、大部分が用意してきた原稿を読み上げるだけであり、聴衆はその形式に退屈していた。ヴィヴェーカーナンダの番が回ってきたが、彼は原稿を何も用意していなかった。「アメリカの兄弟姉妹諸君、汝ら互いに受け入れ、理解し合うべし!」という言葉でヴィヴェーカーナンダが講演を始めると、拍手が会場を包んだ。彼はラーマクリシュナの教えを継承した普遍宗教の理想を語った。この考えは西洋人には極めて新鮮だった。彼の巧みな弁舌に聴衆は魅了され、演説は大成功を収めた。新聞が彼を取り上げたため、宗教会議はヴィヴェーカーナンダの名声を一気に広めた。 1896年、ロンドンにてヴィヴェーカーナンダのアメリカにおける伝道は、これが単に東洋の物珍しい教えではなく、西洋人になにか重要なことを伝えているかもしれないという関心を呼び起こす。インドの宗教と哲学への関心が彼によって引き起こされたことが、多くの記述によって確認されている。 会議が終わって2、3年の間、彼はニューヨークとロンドンにヴェーダーンタ協会を開設し、主要な大学で講義を行って注目を集めた。彼の成功は、当時の保守的なキリスト教徒や宣教師による激しい批判や論争を巻き起こすこととなる。宗教の融和を主張してもヴィヴェーカーナンダは全てを無制限に受け入れたわけではない。堕落した宗教には容赦がなかった。剣によって物事を成し遂げんとするキリスト教徒、贅沢の傍らで教えを説くキリスト教徒、口先だけの偽善的なキリスト教徒に対し「彼らはキリスト教徒ではない。キリストに帰れ」と批判している。ちなみにヴィヴェーカーナンダは利己心の無さと他人への愛が宗教のテストだと述べている。 なお、この外遊の間、ヴィヴェーカーナンダの主要な著書に該当する論文が相次いで完成することとなった。1895年の夏に差し掛かる頃に著作『ラージャ・ヨーガ』が完成、同年12月には『カルマ・ヨーガ』に該当する論文を発表。1896年2月には『バクティ・ヨーガ』をまとめ、同年4月にロンドンにて『ギャーナ・ヨーガ』に相当する講演を行った。 4年に及ぶ欧米での外遊と講義ののち、1897年に彼はインドに帰国する。 インドに凱旋 ヴィヴェーカーナンダの支持者たちは彼のインドへの凱旋を熱烈な歓迎をもって迎えた。彼は、当時の圧迫されたインド社会の士気を高めるために考案された、「コロンボからアルモラまでの教え」として知られる一連の講義を行った。 その後、彼はラーマクリシュナ・ミッションを興す。この機関は現在のインドのヒンドゥー社会における最も大きな教育機関の1つである。 しかしながら彼は、西側諸国を外遊したため、西洋文明は穢れたものであると考えている保守的なヒンドゥー教徒らの強い批判を浴びることとなる。彼と同世代の人たちも彼の動機を疑い、彼のヒンドゥー教の伝道活動から得た名声と栄誉が、彼の最初の僧院での誓いを忘れさせたのではないかという疑念を抱いた。彼の米英に対する熱意と祖国への霊的献身は、彼の晩年、大きな葛藤を引き起こした。 そんな中、1898年11月に彼の女弟子であるニヴェーディターの女学校が開校、12月にはベールール僧院が建立する。1899年1月から1900年12月にかけて、彼は再度一度欧米を外遊した。 肉体を去る ヴィヴェーカーナンダはラーマクリシュナ・ミッションの組織の整備に福祉の実践に加え、布教や修行も平行して行うという多忙な生活に追われた。その忙しさと共に、病が彼の身体を蝕みつつあった。1901年、ヒマラヤのアーシュラムの創設に尽力。1902年7月4日の朝、コルカタの郊外に自身が創設した、ラーマクリシュナ僧院の前身であるベールール僧院にて、彼は一部の生徒にヴェーダーンタ哲学を教授した。彼は、スワーミー・プレーマーナンダと散歩し、兄弟弟子にラーマクリシュナ僧院の将来に関する指示を下した。同日、ヴィヴェーカーナンダはサマーディに入定し、その後肉体に戻ることなく彼岸へと旅立った。師の没後わずか16年、39歳の若さであった。 ヴィヴェーカーナンダの思想 普遍宗教 ヴィヴェーカーナンダはまず、宗教が様々な教えに分かれているという現実を見つめる。霊性の世界では世界の人々を統一する唯一の教えなど生まれようがない。1つの教典から50年経たないうちに20もの宗派が生まれる。まして教典が違う宗教の間に差異が生じるのは尚更のことだ。ヴィヴェーカーナンダはその違いを認めた上で、積極的に評価する。人が思考する限り、宗派は増え続ける。ならば大いに増えるべきだと。活動を生み出すには2つ以上の力の衝突が必要である。多様は生命の第一の原理であり、全てが同一というのは静止した死の世界だ。問題となるのは自分だけが正しいと思い込み、他の教えを抹殺しようとすることだ。彼は「相手の教えを壊すな」、「低いと思われる教えは引き上げよ」という。彼によれば宗教の教義上の違いは矛盾ではなく、1つの真理に対する異なったアプローチである。それらは違いにより補い合う。1つの教義に真理は収まりきらない。多様な宗教の全体が真理である。 真理とは狭量なものではなく、ひたすら広い。それは仏教もキリスト教もイスラム教もヒンドゥー教も全てを含む、彩り豊かな全体としての神の啓示である。 特定の時と場所に現れる有限な宗派に囚われず、大いなる視点から諸宗教の協調を目指す普遍宗教の理想は、頑迷な宗派意識への痛烈な批判だった。ヴィヴェーカーナンダは、宗派が争いではなく協調を始めたときに生まれる大きな力に期待を寄せる。人間にとって魂の探求、神の光の探求ほど多くのエネルギーを費やさせたものはないからだ。なぜ宗教がそこまで大きな力を持つのかといえば、無限という理想を宗教が内に宿しているからだという。感覚界のなかで無限という理想を求めても必ず挫折する。例えば無限の感覚的快楽など不可能である。無限という理想は超感覚の世界の中に見出される。ヴィヴェーカーナンダは、あらゆる宗教に共通な要素は感覚の限定を超えようとする努力だという。自然の背後に働く大いなる力を見るのも、先祖の霊魂を崇拝するのも、霊の啓示を受けるのも、悟りを開いて永遠の法則を理解するのも、超感覚的なものに対する関わりだ。宗教の対象は絶対あるいは無限であるがゆえに人間の理性や感覚に収まりきらない。物質に留まることもない。感覚の限定を超え、無限なるものと合一するのが最高の理想なのだと彼は主張する。そして合一のための手段として彼はヨーガを提唱する。活動的、精神分析的、宗教的、哲学的といった様々なタイプの人間が己の性格に合った方法としてとるべきヨーガがある。それぞれカルマヨーガ、ラージャヨーガ、バクティヨーガ、ギャーナヨーガと呼ばれる。これらはヴィヴェーカーナンダの独創というわけではなく、『バガヴァッド・ギーター』やヨーガ学派の思想を彼が再編成し、人間の生全体に当てはめたものである。 ギャーナヨーガ ヒンドゥー教 基本教義 輪廻、解脱、カースト 神々 ブラフマー、シヴァ ヴィシュヌ(クリシュナ) 聖典 ヴェーダ マハーバーラタ (バガヴァッド・ギーター) ウパニシャッド ラーマーヤナ 人物 シャンカラ、グル 修行法 ヨーガ 地域 インド、ネパール バリ島 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007.10.22 01:04:29
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