「砕かれた神/渡辺清」-2
【1945年9月】 大日本帝国の戦闘は8月15日に完全終了ではない、以下は昭和天皇の命令(奉勅、勅諭)の一部。・大海令第四十七号/昭和二十年八月十五日(抜粋) 何分の令ある迄対米英蘇支積極進攻作戦は之を見合はすべし──・大海令第五十号/昭和二十年八月十九日(抜粋) 一、大海令第四十九号に於ける一切の戦闘行為を停止すべき時機を海軍総司令長官指揮下部隊に在りては昭和二十年八月二十二日零時とす、但し支那方面艦隊に関しては追て定む──・勅諭/昭和二十年八月二十五日 朕帝国陸海軍を復員するに方り朕か股肱たる陸海軍に告く 朕深く時運に稽へ干戈をおさめ兵備を撤せむとす 皇祖考の遺訓を念ひ汝等軍人多年の忠誠を顧れは切切として胸次を刺す特に戦に殪れ病に死したる幾多の将兵に対しては□(りっしんべんに中)怛に勝へす 茲に兵を解くに方り一糸紊れさる統制の下整斉迅速なる復員を実施し以て皇国有終の美を済すは朕の深く庶幾する所なり 汝等軍人其れ克く朕か意を体し忠良なる臣民として各民業に就き艱苦に耐へ荊棘を拓き以て戦後復興に力を到さむことを期せよ── 小野田寛郎少尉の戦いは1974年(昭和49年)まで続いている。 任解除の根拠となった命令には「尚武作命甲第2003号」もあり戦闘停止は「昭和二十年八月二十五日」となっているようだ。 8月15日夕刻、駆逐艦早波の艦長が「天皇陛下におかせられては、ポツダム宣言受諾の御聖断をくだされ、本日正午ラジオを通じて降伏詔書を煥発せられた」(1945年9月4日の記述) 20歳の渡辺清は1945年8月末に復員(海軍生活は4年半)、実家は農家で両親は健在、しかし彼の村の戦死者は非常に多く帰郷の挨拶をして回るのに躊躇、渡辺は生きている事に罪悪感がある。 当時は就業者の半数ぐらいが第一次産業に従事していたよう、復員者の半数近くは渡辺清のような状況下だったと推察する。 都市生活は一部の者以外は困難な時代、色々な意味合いのヒエラルキー逆転が起こっていたと想像する。 「9月02日」は「天皇陛下が処刑されるかもしれない」、 「9月04日」は「降伏調印式」、 「9月30日」は「昭和天皇のマッカーサー訪問」 渡辺は戦地から農村、仲間を殺した米英に敗北し日本は占領されている、順応に困難な状態。〓勝手に独断と偏見〓 米英に敗北した大日本帝国、「天皇陛下が処刑されるかもしれない」なる危機感は日本人の多くが持っていたと思う、日本国民の多くは天皇制を支持していたと思う。 9月27日に昭和天皇はマッカーサーを訪問、二人の写真が新聞に掲載された、新聞社は掲載しようとし大日本帝国政府は反対、結局はGHQの意向により掲載されたと認識している。 「9月30日」には写真の感想として、(日記は若干のタイムラグがある。) 「モーニング姿の天皇は石のように固くしゃちこばっているのに、マッカーサーのほうはふだん着の開襟シャツで、天皇などまるで眼中にないといったふうに、ゆったりと両手を腰にあてがっている。足をいくらか開きかげんにして「どうだ」といわんばかりに傲岸不遜にかまえている。天皇はさしずめ横柄でのっぽな主人にかしずく、鈍重なで小心な従者といった感じである。」 自分の子供達(天皇の赤子)を殺した親玉にどう対応するのかの視点が存在する。 昭和天皇の初訪問では写真のインパクトが強い。 「おれは降伏詔書を発布された直後に天皇陛下は自決するのではないかと思った。敗北の責任をとる手段といえば、さしずめそれ以外にない。開戦の責任者である以上、そうするのがむしろ当然だと考えたのである。 ・・・ 天皇陛下は、御親率の陸海軍人がほぼ復員を完了し、人心が平時に復したときか、さもなければ連合国が軍事裁判を開く前あたりをその時期とみて、あるいは御退位するおつもりかもしれない。」 「戦争は天皇陛下の御命令で開始され、惨憺たる敗北を喫したあげく、最後も天皇陛下の御命令で終止符がうたれた。そして、その間たいへんな犠牲者を出したのだ。天皇の名によっておびただしい人命が失われたのだ。畏れおおいことだが、この責任は誰よりもまず元首としての天皇陛下が負わなければならない。」 戦後の日本に於ける加害者意識と被害者意識、自分だけが生きて帰って申し訳ないは加害者意識が強いと思う、新聞による天皇に対する一億総懺悔は国民が加害者が強調され加害者の加害者感は緩和されている。 昭和天皇は加害者・被害者どちらを表明するのか、渡辺の生き方にとっても重要な事。