第三百十二夜 アクス・アイ・カン
As I Can.私のできうる限り。ヤン・ファン・アイクの有名な絵に描かれたコトバ。画家の自負心は別として、好きなコトバだ。見え方は別として、内在的な部分でゆるく生きるという選択をすることもできる。でも、そんなヒト、いるのかな。私は、いないと思ってる。そのヒトなりに必死なのだと知っていると思ってる。私が見ているのは、カラダの歪みや顔の歪みではなく、そのヒトのココロの歪み。カラダというものは、かたくできた気持ちのしこりを少し見せたのに過ぎないから。ふと、触ってしまいたくなる。そのカラダに、そのココロに。でも、しないの。それは、ものすごく誤解を生むし、潜在的に望まれていないことだって多い。アクス・アイ・カン北方ルネサンスというのは、その地域が支配されてきた文化圏という前提においては、概念として成立しないという講義を受けたことがある。あるのは、デューラー・ツァイトとマーラー・ツァイト。オモシロイ。その価値観の差がオモシロイ。クラシックのスタイル、ルールや演目は決まっている。その中で、基本ラインを崩さないでどのように、一番じぶんを良く見せられるか。そこにかかるのだけど、たとえば客観性を持ちにくい、じぶんと距離を持ちにくいカテゴリーの表現の場合、これはじぶんだけではできない。ダンスは、そうかな。カラダの思いこみがあるから、ひとつ抜けたステージまで行かないと、今のじぶんから抜け出すことができない。鏡じゃなく、誰かに見てもらう。うん。結局はじぶんの気づくタイミングなのだけど、ひとつの早道として。はじめてアキレス腱をいかれさせてしまったとき。あの時は、人間ではなくなっていくじぶんを感じていた。限界以上にやせて,ヒトが声をかけることもできず、それでも罵倒されて。できることはすべてした。でも、それがメンタルな面から来たものと認めるには、勇気がいる。なぜなら、それは、わたしの弱さだから。同じように、じぶんのみにくさを認めるのも勇気がいる。それと向き合うこと。アクス・アイ・カン今、私にできるだろうか。まだ人間の位置からすべり落ちる恐怖を忘れえぬ私に、それは可能なのだろうか。