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白隠禅師は、「若い衆や死ぬがいやなら今死にやれ一たび死ねばもう死なぬぞや」と歌ったさうであるが、白隠のやうに「今死にやれ」と言ひ、明極禅師のやうに「両頭ともに截断す」と言ひ、キリストのやうに「生命を捨つるものは生き、生命を得んとする者は死す」と言ふのはいづれも、「人を斬って眼をさつせざる」峻厳なる智慧の利劍である。 智慧の利劍は同時に、宇宙の生命であり、愛である。 利劍即大慈悲なのである。 この利劔に首を刎ねて貰ってこそ、「方に立地に成佛すべし」である。 立地と言ふのは立所である。 成佛といふと何か別のえらい者になるかのやうに思っている人があるが、なにもえらい者になることではない。 「生」も「死」も何にもなくなることである。 えらいとか出世するとか何とかいふのは、そんなものはいづれも「生」の中にある何かの花模様や階段みたいなものであるが、「生」がなくなれば、えらいもなければ出世もない。 えらいもなくなり、出世もなくなり、死ぬことを何ともなく、それでいて一生懸命世の中のために盡す底の人が、これこそ成佛したのである。 本當の宗教といふものは、みんなかういふ風にして生死の両頭を截断して人の佛性を扶豎し開顕するものである。 ======================== それでいて一生懸命世の中のために盡す底の人が、これこそ成佛したのである。 一生懸命とは、自らの意思で物事にひたむきに取り組むことを意味する言葉である。 「一所懸命」ともいう。 ... 「一所懸命」は、中世、武士が領主から賜った土地を生活のために命がけで守ろうとすることをいった言葉である。 近世になり、単に命がけで物事にあたる意に転じた。 (ネット引用) 一つ所に生命をかける、生も死も超越すると言う事で、肉体生命を死なせる事ではありません。 尊師雅春先生は『今に生きよ!』と仰ってます。 始まりが有り、終わりの有る現象的な時間の今では無く、久遠に流れる『今』に生きる事、 其れが「両頭ともに截断す」であり、「一所懸命」で有り、『今に生きる!』で有ります。 『久遠の今』 https://www.youtube.com/watch?time_continue=9&v=WueXb8tC-iQ
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Last updated
2022.01.30 08:06:28
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