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嘗って近視左右五度と六度の眼鏡を掛けていた川村よし子と言はれる双葉高女の生徒が心が轉じてその近眼の治ったときに、眼鏡を外して見た蒼空は實に冴えた紺青であって、今まで近眼鏡で見た空はつねに白っぽく曇った色であったが、それは實相ではなかった、心の眼を開いて見たときと、心の目を閉じて見たときとは、このやうにも世界の美しさが異なるかと驚嘆されたことがある。 維摩経には「菩薩心浄ければ、浄土浄し」とある。(拙著:雅春先生の事『維摩経解釋』参照)さて江南府に龍紗山といふ山があって、昔、禹王が、そこの瀑の水を三段に分けてその排水を圖ったといふのである。 そこで江南龍沙の瀑を「三級浪高うして」と形容したのである。 皆な人間は魚のやうな小っぽけなものだと思っているが、豈計らんや、人間は本来「龍」なのである。 天地にひろがり、また小さい鉢の中にも収まるところの神通自在の存在なのである。 たゞこの浪高き道を超えないために、さとりの一線を超えないために、いつまでも稚魚のやうな、小さな姿をあらはしているに過ぎないのである。 今このまゝ實相を悟ればもう既に人間は稚魚ではない。 角が生え、紫雲に乗って神龍として空中に無礙自在の活躍が出来るのである。 併し悟らずにいる者は痴人、猶ほくむ夜塘の水だ。 愚かにも瀑の水を遡る力もなく、とぼとぼと夜の塘に水をくみに行く盲人のやうなもので、足下がお危いですぞ。 「汝等は塵よりとられたれば塵にかへらん」 と唯物論の人間に 對してエホバの神は言ひ給う。 人間は物質の塊であるから、神龍と化して、空中を自由自在に遊歩することなど出来ないといふ。 人間の神聖性などは判らないから、天孫降臨の神聖事實も理解出来ない。 従って日本國體の立派さも尊嚴もわからぬ。かういふ人間は始末にお終へない。 早く慧超が慧超であり、日本國が日本國であり、ヒノモトがヒノモトであり、天孫降臨が眞に天孫降臨であるところの、そのままの實相を知らしてやりたいものである。 (『碧巖録解釈』谷口雅春先生著/引用) アマテラスオオミカミが仰せられました。 豊葦原(とよあしはら)の、千秋(ちあき)の長五百秋(ながいほあき)の水穂國(みずほのくに)は、我が御子マサカアカツカチハヤビアメノオシホミミノミコトの治める國である。と仰せられ給いて天降(あまくだ)されました。 そこでアメノオシホミミノミコトは、天浮橋(あめのうきはし)にておっしゃいました。豊葦原(とよあしはら)の千秋(ちあき)の長五百秋(ながいほあき)の水穂國(みづほのくに)は、とても騒がしい様子である。高天原に戻られて、アマテラスオオミカミにご報告なさいました。 アマテラスオオミカミはおっしゃいました。 次に、いずれの神を遣(つか)わすべきで有ろうか。思金神(おもいかねのかみ)他様々な神がおっしゃいました。 天安河(あめのやすのかわ)の河上(かわかみ)の天石屋(あめのいわや)にお住まいの、イツノヲハバリノカミをお遣わしになれば宜しいでしょう。 https://plaza.rakuten.co.jp/hihumi33/diary/201107310001/
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Last updated
2022.03.24 07:55:15
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