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「株を守りて兎を待つ」といふのは、韓非子にある話から引用したのだといふ。 その話といふのは、昔、宋の國に百姓があった。 或る日田へ出て耕さうと思っていると、偶々一匹の兔が樹の切株に頭を打突けたと見えて、切株の下に死んでいる。 それを拾って歸ったら大變好い値段で賣れた。 こんなことなら、面倒な鋤鍬をもって泥田を耕すよりも、樹の切株に兎が頭を打衝けて死ぬのを待っていて拾って歸る方が身體は樂で儲けは好いといふので、それ以来農事を放擲して一本の切株に兎が頭をぶっ衝けて斃れるの許りを待っていたといふのである。 つまり慾と執着とによって、生命の自由を失って一事物に凝著していることである。 今でもそんな人がある。 (『碧巖録解釈』谷口雅春先生著/引用) 生命の自由を失って 生命の自由を失って居る人々は巷に溢れています。 眞理を掴んでも、“今に生くる”生活と成って居ないならば、 人生甲斐有り とは中々ですね。
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