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心はたくみな絵師のごとく

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2014.08.30
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2014年 2月20日

〈生きるよろこび〉進行性多巣性白質脳症(PML)と闘う 

 

「信心はハッピーエンドって決まってるから」

 【札幌市北区】平澤啓二さん(53)=拓北支部、副区長(地区部長兼任)=の歩行がふらつき始めたのは、2012年(平成24年)の春4月。最初は妻の恵さん(51)=支部副婦人部長=も軽く考えていた。前の月、長女の文さん=華陽リーダー=が創価女子短期大学の卒業式を迎え、門出の空の下、一緒に万歳をしたばかり。すぐに良くなると思っていた。だが症状は進んだ。5月には言葉をうまく話せなくなり、6月には立てなくなった。

 

見えない原因

 道と剣道で鍛えた青春時代。啓二さんは体力に自信があった。だが近年、闘病が続いていた。08年に肝臓がんを発症し、その3年後に再発。それでも手術後は日を置かず、自営のリフォーム会社に立った。恵さんは「病気に負けない強い人だ」と思った。
 ひと安心の区切りといわれる5年を目指した。だが体に異変が起きた。八つの病院に通うが、原因がはっきりしない。
 文さんと次女の正恵さん=華陽リーダー=も動揺した。父のイメージは「応援団長」。中学でバレーボール部だった2人の試合では、相手が気後れするほどの声援を送った。仲間から「文のパパが来ないと勝てない」とも言われた。そんな父が涙を流したと聞き、胸が痛んだ。
 会社は恵さんが支えた。社長不在の中、売り上げも落ちた。投げ出したかったが、踏ん張る理由があった。
 10年前――経営する宝石会社が倒産したとき、啓二さんは資金繰りのために家を手放した。恵さんは夫を支えなければと思ったが、心身のバランスを崩していた。寝込んでばかりの自分がふがいなかった。だから今度こそ「夫の帰る場所を守りたかった」。
 病室の窓から夏の色を感じた。啓二さんはベッドの上で、黒い手帳を開いた。かつて記した池田名誉会長の言葉を読み返す。「最悪の時にも、この人生が最高の人生であるとの確信を持ち続けること――それが信心の極意」
 啓二さんは、わずかに動く指先で携帯メールを打った。〈愛する家族〉へ宛てた。〈皆が難に対して戦っている今が、一番幸せだと思います〉。祈り続けてくれる師の慈愛に応えてみせると、静かに誓った。

 

極限の先に輝け命!病が姿を現す

 12年8月31日。北海道医療センターに行った。神経内科の南尚哉医長に今までの経緯を説明すると、「脳の炎症」を疑われた。だが、髄液検査でも異常が認められない。腫瘍の可能性も否定できず、南医長は脳の細胞を採取する「生検」を提案した。夫妻は悩んだ末に承諾した。そして病が姿を現す。
 10月15日。「進行性多巣性白質脳症」(PML)。JCウイルスが大脳白質や小脳、脳幹に感染し、中枢神経が破壊される疾患。四肢まひ、失語、けいれん発作などに見舞われる。発症後は急速に悪化し、生存確率は極めて低い。数カ月で植物状態となり、多くは1年以内に死に至る。
 夫婦は「診療ガイドライン」の「発症頻度は1000万人に約0・9人」という文字を目にした。動揺もあったが、「病魔をやっと引きずり出した手応えが大きかった」。
 家族は葛藤に揺れた。文さんは、東京の専門学校に通い始めたばかり。空港の地上勤務員になる夢があった。だが「家族が大変なのに、自分だけ夢を追い掛けてもいいのか」。
 背中を押したのは母だった。「親の病気は夢を諦める理由にならないよ」。安心してと優しく言葉を掛け、恵さんは家の受話器を置いた。そして両手で顔を覆った。一人の時ぐらい泣いてもいいよね。強い母を演じるには、ほんの少しの涙が必要だった。
 生検の浮腫を抑えるためのグリセロールと2回のステロイドの効果か、啓二さんは意思の疎通がスムーズになった。リハビリセンターへ転院することにした。だが病魔は、しぶとかった。
 10月の末。恵さんの携帯電話が鳴った。病院の啓二さんからだった。「悪いものがあるって……」。肝臓がん3度目の再発だった。

4センチの生検痕

 しかった。戸惑いもした。だが負けたくはなかった。「今こそ信心の極意を」と言い聞かせ、闘志を燃やした。妻は「出てきたなら、たたきつぶすしかないよね」。

 医師と相談し、まず脳の治療を優先させた。
 12月22日に退院。経過は順調に見えたが、13年の年明けに症状が急変した。
 病院でMRI画像を見せられた。大脳に新たな病変が認められた。恐れていた再燃。恵さんは「死に至る」という言葉を思い出し、震えた。啓二さんは妻を諭した。「いいか。意味のあることだから。疑うな」
 進行は早かった。あっという間に寝たきりになり、意識が遠のくことさえあった。死へ引きずり込まれる気がした。
 深夜、恵さんはベッドの脇に腰掛け、寝息を立てる夫の右手を両手で包んだ。ぬくもりが伝わってきた。この手に家族は守られてきたんだよね。妻は「生きて」と祈りを込めた。
 グリセロールの点滴で様子を見る一方、南医長は診療ガイドラインに基づいて、ある薬の投与を考えた。マラリアの治療に用いられるメフロキンという薬。院内の倫理委員会に諮り、承諾を求めた。
 だが副作用として薬剤性の肝障害を引き起こす懸念があった。恵さんは「0・1%でも可能性があるなら」と投与を頼んだ。
 2月25日。点滴の効果か、啓二さんはベッドの柵につかまって、上半身を起こした。
 「使命は果たしてこそ使命だ」。同志の励ましや祈りがあればこそ、生きる力がうなりをあげる。病を克服した姿を見せようねと、夫妻は誓った。そして南医長はメフロキンの投与を始め、進行の抑制を狙う。
 恵さんは会社を懸命に守り、啓二さんは死の淵から何度もよみがえる。そんな夫妻を甥の妻は見ていた。「もう何の疑う余地もない」。彼女は進んで、創価学会に入会した。
 4月16日。退院。車いすを押す恵さんは、啓二さんの左耳の後ろに刻まれた4センチの生検痕を見つめた。パパはやっぱり、病気に負けない強い人なんだね。うっすら残る傷痕に力をもらった。

 

肝臓がん3度の再発僕は幸せだよ

 臓がん3度目の闘い。6月。腫瘍の中に電極を差し込み、凝固させるラジオ波焼灼療法が始まった。恵さんは「全宇宙の諸天よ。全力で護れ!」と書いた紙を御本尊の前に置き、祈り抜いた。
 病室の啓二さんを元気づけたのは、がんと闘う同室の患者さんたちの笑顔だった。「俺なんか8回目の再発だよ」。自分はまだ3回目。「新米だと思った」
 緊張の日が続く。ある日、二つの病と闘う啓二さんに、恵さんが心境を尋ねた。「僕は幸せだよ」。耳を疑った。「こんな状況なのに」と聞き返すと、「信心はハッピーエンドって決まってるから」。夫の確信はたのもしくて、心強かった。
 娘たちは父に励ましを送る。文さんは昨年末から、国際線のグランドスタッフとして働き始めた。正恵さんは今春から、創価大学の通信教育部で青春を謳歌する。
 「俺も負けてられないな」。啓二さんは、鏡を見ながら笑顔の練習を始めた。吉幾三の「雪国」を家のカラオケで歌い、出にくい声を絞り出す。手のリハビリにと日記をつけた。「10/13 今日ぐらいはママをゆっくり休ませてあげたい」。力がうまく入らない右手で、妻を気遣う言葉ばかりを並べた。
 現在、メフロキンの投与から症状は安定している。MRI画像でも病変は確認されていない。しかし、啓二さんは家族の手助けを必要とする生活が続く。立ち上がれない。
 ただ、得たものもある。死の危機に陥って6年。家族は悔しくてうれしくて、たくさん泣いた。そして「普通に暮らせることが、一番の功徳だ」と心から思えるようになった。流した涙は一滴も無駄ではなかった。

 

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最終更新日  2017.09.18 22:26:00
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