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2023.01.02
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カテゴリ:カテゴリ未分類

 

 
先生に学ぶ4    金元弼

 

 

心と行動    

 

足りないリーダーに対しても兄弟は「はい、はい」と言って侍りますが、それはリーダーが好きだからではなく、神の御告であると思うからそうするのです。「恐い恐い」と震えながらついてくるのです。でも、それでは主体と対象の授受作用ができないので、そこには神が運行しません。ですから繁殖も何もありません。それは悪の循環でしかないのです。

リーダーに「水を持ってきてください」と言われたとしましょう。上の人の命令だからきかなければいけない。

そのとき、リーダーが嫌いだったら、喜んで持っていくでしょうか、それとも顔をしかめて行くでしょうか。また、コップにゴミがついていたとき、リーダーに対しての気持ちがひじょうに良いときには丁寧に拭いて持っていくでしょうし、気持ちがよくないときには、いい加減に拭いて持っていくでしょう。その水を飲んだ場合、体はどうなるでしょうか。外的にはわからないかもしれませんよ。でも、寂しい心が水と一緒に混じって入るのです。体にいいはずがありませんb また、愛をこめた水を飲んだときは、どうでしょうか。飲む人にはわからないかもしれませんが、皆さんが本当に霊的に明るくなれば、それがわかります。

握手をするにしても、友達と握手するのと、嫌な人と仕方なく握手するのとでは、形は同じかもしれませんが内容が違います。同じく、目をみても、本当に憐れんで見るのと、憎しみの心で見るのとでは、全部違うのです。

リーダーが兄弟を本当に愛しているかどうかは、その目をみればわかります。「私は彼を憎んだことなどありません」と言っても、それは通じません。神を前提としない中では通じるかもしれませんが、本来的には通じないのです。

私たちは、そういう心持ちで、言葉ばかりでなく、行動していかなければなりません。特にリーダーは、自分自身が、そういう道を行かなければいけません。だからリーダーというのは難しいのです。そういうことがわからない人は、リーダーになりたくてたまらないのです。

リーダーになりたいと思うことは悪いことではないのですが、今お話ししたような心をもって行かなければいけません。

 

 

犠牲あっての悟り

 

 

皆さんは、過去を振り返ってみて、「私はたくさん習いました、悟りました」ということを言います。皆さんがたくさん悟り、習った、と言えるということは、それぐらいに皆さんはたくさんの人を傷つけてそのおかげで、そのように習い、悟ったのだ、ということを忘れてはなりません。

わかりやすく話しましょう。たとえば、一人の名医がいます。その人は初め、医大を卒業しましたが、そのときは何もわかりませんでした。彼はお医者さんになって患者を扱うようになりました。学校で習った方法で試みましたが効果がなく、患者はひじょうに苦しみました。

それで「これは困った」ということで、もう一つの方法を試みましたが、また駄目でした。そうしているうちに患者は死んでしまいました。このようなことを何度か繰り返しているうちに、彼はいろいろな経験をつみました。

そしてその後は、すぐに的確な診断をして治すようになりました。それで彼は、名医と呼ばれるようになりました。そのように、名医ということは、たくさんの人を犠牲にした、というのが前提になるのです。おわかりですか。

 

ですから、名医になった人は、まず誰に感謝しなければいけないでしょうか。自分に感謝すべきでしょうか。自分を教えた先生に感謝すべきでしょうか。もちろん惑謝しなければいけないでしょう。しかし、それよりも前に、自分のために犠牲になった人たちに感謝を返さなければいけません。

皆さんは、いかがですか。悟るということは、人を犠牲にして悟ったものです。夫婦の関係も同じです。自分が相手を愛するようになったということは、相手をたくさん苦しませたおかげで、そうなるのです。愛さなければいけないということを悟ったということは、過去は愛せなかったということです。愛せなかったということは、相手を苦しませたことなのです。おわかりですか。

たとえば、星がたくさん付いている将軍と、何も付いていない兵卒では、どちらが偉いですか。星がたくさん付いたということは、たくさんの部下を殺したということと同じです。そのようにして付いたのです。ですから戦争に勝った将軍は、まず第一にどこを訪ねるか。そのように位の高い将軍でも、一番下の死んだ兵卒の墓の前で頭を下げるのです。その人の死によって、勝利がもたらされたからです。ですから、その星は、勲章は、自分のものではなく、その人たちのものなのです。

勝利の栄光は、すべてを勝利に導き、そういう犠牲の道を通じてでも行かせてくださった神様に、まず一番初めに栄光を与え、次に、犠牲になってくれた人たちに、その栄光を全部返さなければいけません。そうすると、神様やその人たちが、また私に返してくれるのです。

ところが皆さんは逆です。栄光を、自分や自分の家庭に返したら大変です。最初はわからなくてそうするのでしょうが、これからは常に、「自分が悟った、自分が習った」というのではなく、犠牲になった人たちに、まず感謝してください。

 

親孝行

 

先生にいろいろ言われたことを考えながら、私が巡回していたときのことです。どのようにしたら私も先生のような生活ができるのだろう、ということで胸がいっぱいです。韓国で非常に奥深い高い山を、冬に超えなければいけませんでした。誰も人がいません。真っ白い雪が降っていました。そこを一人で歩いています。

そのとき、ふと私は、「天は父を象徴し、地は母を象徴する」という原理のことばを思い出しました。そして、今私は、この地を踏んでいるから、お母様の体を踏んでいるのだ、とそう考えました。文学的に受けとったときに、そういうふうに考えざるをえませんでした。そうすると、今までこうして歩いていたのに、お母様の体だと考えると、痛いのです。ですから、そうっと歩きました。すると本当に、体を踏んでいるような、そういう心が出てくるのです。

 

また、一足踏むときに、「私は、親のために孝行する。そして忠節を尽くす。そして貞節を守る」という心持ちで一つの白い雲に誓いながら行くのです。私は親孝行します、次は忠節を尽くします、と、字を一つ書いて、また字を書いて、というふうに歩いたのです。またあるときは、足を踏んで「忠」とか「孝」と書くのです。これは、本当に私にとって、良いお祈りになりました。それは、私の心に強く残りました。

 

韓国に、本当に親孝行の子供がいました。親が亡くなって三年間、毎日その人は、親の霊魂を慰めるために、死んだ親の所へ行って、お祈りしました。親が葬られているお墓までには芝生がありました。ところが、彼が毎朝そこに行ってお祈りしますので、その足跡や、いつも祈った場所には芝生がはえませんでした。毎日、そこを踏んで歩いたからです。

世の中でも、自分の親に対して、そのように心を尽くす人があるのです。そういう人たちは、真の父母様を知らなくても、自分の親にこのようにしたのです。であるならば、私たちは、真の神に、真の親に、どのように心を尽くして侍らなければならないでしょうか。

「あなたたちは、神様を、そして真の父母様をわかっていながらも、できなかったのですね」と、その人たちに問われることになるでしょう。「あなたたちは、私に及びません」と言うでしょう。でも、その人たちでも、先生を見るときには、「私は先生に及びません」と言うでしょう。先生は、神様に侍るにあたって、その人たち以上の基準を立てられたのです。 

 

先生の立てられた基準

 

世の中には、国のために忠義を尽くした人たちがたくさんいます。そういう忠義を尽くした人たちに、「あなたには私も及びません」と言われるためには、先生はどういう道を歩かなければならなかったのでしょうか。神の国を建設するにあたっては、国のために世界の平和のために尽くした、そういう世の中の人より以上に、神の国のために神の世界建設のために心を尽くさなければならないのが、先生の基準です。

もし、それができないとするならば、それらの霊界の人たちが先生を訴えるでしょう。イエス様、お釈迦様、マホメット、そしていろいろな聖人。あるいは、この世の中で、神のために尽くした王様、忠節を尽くした親孝行者が。そういう人たち以上の忠義と愛を尽くさないならば、先生は、そういう人たちに訴えられるのです。

ですから先生は、ある国に入ると、いつも、「この国のために、神のために尽くした最高の人は誰だろう」と考えながら、それ以上にこの国を愛するという条件を、お立てになるのです。

 

犠牲愛でサタンを切る

 

皆さん、愛というものは「明り」のようなものです。昆虫が明りを求めて集まるように、明るい所、もっとも高い愛のある所には、すべての人が、すべての存在が集まってくるのです。サタンもそれを好みます。なぜならば、愛というものは、すべての根本になるからです。生命、満足、理想など、すべての根本になるからです。

ところがサタンは、愛を生命視することはできるけれども、犠牲にするという犠牲の愛はできないのです。ですから私たちが犠牲の愛を払うときには、サタンがそれから取り除かれていきます。

もし、サタンが犠牲的愛をするならば、もともと堕落は可能ではありませんでした。天使長が堕落したのは、自己を中心とした愛が始まったからです。犠牲的愛、ために尽くす愛というものができなかったために堕落したのです。ですからサタンを取り除く方法、唯一の道は、「ために愛を尽くす」、それ以外の道は何もありません。おわかりですか。

イエス様が、「誰よりも私を愛さなければいけない」というみ言をくださったのは、そこなのです。真の神の愛を引き継がせるためだったのです。自分が愛を受けたいという欲ばりがあったからではありません。サタンがついているので、そのサタンとの因縁を取り除かない限りは、神の愛を与えることができないのです。犠牲的愛をすることによって、サタンとの分裂、サタンとの間の因縁が切れるので、それを願われたのです。サタンは犠牲的愛ができないので、そこから取り除いていくために、神は、必ず人間に、そういう犠牲の愛を提言されるのです。

 

許す心

 

韓国のある教会の牧師さんたちが先生を訪ねられたとき、先生はこういう話をされました。「実をいえば、あなたと私は敵です。あなたは私を反対して、韓国から追い出そうとしました……」。

ヤコブには十二人の子供がいました。その中のヨセフは兄弟から殺されそうになって、エジプトに行き総理大臣になりました。その後、兄弟がやって来たとき、ヨセフは、自分を殺そうとした兄弟たちを許しました。なぜ、許すことができたのでしょうか。それは、自分を殺そうとした兄弟ではあるけれども、その兄弟たちは、自分がいない間、自分が本当に愛している親、自分が侍らなければいけないはずの親に、ずうっと侍ってきてくれたからなのです。そこをみて、ヨセフは許したのです。今、ユダヤ教やキリスト教が先生に反対していますが、先生もそれと同じなのです。もし、ユダヤ教とキリスト教がなかったならば、神はどのようにして今まで支えられてくることがでぎただろうか。ユダヤ教とキリスト教が神を支えていなかったならば、どうなったのだろう、そのように先生は考えると、統一教会を滅ぼそうとする彼らであっても許すことができるというのです。あくまで自分を中心としてではなく、神を中心としてこそ、こういう許しの心が出てくるというのです。

ただ漠然と、愛さなければいけない、人々を兄弟を愛していかなければいけないと、いくら思ったとしても、そういう心をもたないと、それはできません。






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最終更新日  2023.01.02 09:36:03
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