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2023.01.06
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先生に学ぶ   金元弼

  1981年ファミリー6月号

https://youtu.be/iTYZcVfFWzM

先生のお母様の、子を愛する情について

 

先生のご家族や親戚など、すべての人たちが北の方にいらっしゃいました。中でも一番先生のことをご心配された方が、先生のお母様です。先生のお父様は、ひじょうに口数の少ないまじめな方で、何か一つのことを始めると終わりまでやってしまわれる性格で、村の人と交際することなどは少なかったようです。大きなご家庭であり、また農家でしたので、お母様が家のことのすべて、家族の世話や農作業のことまで、直接面倒をみておられたようです。

 

先生が日本から帰られるとき

 

先生はお若い頃、日本で勉強されていて、戦争が終わるとすぐに自分の故郷に帰られました。そのときの話です。

先生は韓国へ帰る前に、「何日の何時の船で帰る」という電報を打ちました。ところがその日、その船が韓国へ向かう途中に沈没してしまい、その船に乗った人たちは全員亡くなってしまうようになったのです。

そこで、お母様は受け取った電報の船が沈没したというニュースを聞いて、もう気も狂わんばかりでした。そして、子供である先生を見るために、一人で釜山まで行ったのです。しかし、必死に先生を探してもみつけることができず、本当に気が狂ったようになって家に帰られました。それは晩夏のときのことですが、お母様は自分の靴が脱げてしまっているのも知らずに裸足で歩いていましたので、薮やトゲで足がめちゃめちゃに傷つき、化膿までしていました。しかし、それさえも気がつかず、ただ泣きながら自分の故郷に帰ってきたのです。着物も薮の中でビリビリに破れてしまっているので、本当に気違いさながらでした。それほど、自分の子供を愛されたのです。

ところで、先生はそのとき、その船に乗っておられたのでしょうか。実は、先生は本当にその船で出発するつもりで、その日埠頭に出かけたのですが、途中で足がくっついて動かなくなり、なかなか行けないので、その日のスケジュールを変えたのでした。その船が沈没するとは、先生もそのときは気がつきませんでした。そして先生が故郷に帰ってみると、さっきのようなことが起こっていたのでした。

 

先生が牢獄生活されたとき

 

先生のお母様は、自分の子供が本当に正しい者であり、人のために良いことをする者であることを、よくご存知でした。お母様は特に先生を、兄弟の中でも信頼しておられたし、また愛しておられました。だからこそ、幾度も先生が学生のときから罪なくして牢獄生活するたびごとに、お母様は、大きな悩みと心の苦しみを受けられたのです。

先生は、自分のお母様に対して、また兄弟に対しても、この世界を救わなければならないという神の御告を受けて、そのためにどういう道を歩いているのか等について、まったく話しておられませんでした。それでお母様は、先生の姿を見て、ひじょうに寂しく、また不満を感じたりされました。

牢にいらっしゃる先生のために、お母様は忙しい家事の中にあっても、何ヵ月もかかって、食べ物などを準備して訪ねられました。その母の心というものは、子供のために準備した大事な食べ物を、その子供だけに、先生だけに食べてほしいというものでした。それがお母様の考えであり、また、それは自然であると思います。ところが先生は、自分だけでそれをおあがりなさらないで、お母様の見ている所で同じ囚人たちに分けてあげました。それを自分の目で見ることは、もっとも辛いことでした。

子供がいくら成長したとしても、母親の目からみれば、いつも幼い子供です。それが情念です。子供がおじいさんになっても、外に出かけるときには「ぜひ体に気をつけて」と言うのを忘れないのが親の心です。

先生の変わりはてた姿、囚人の衣服、全部刈られた髪、自由のない姿や様子。ひじょうに惨めな先生の変わった姿を眺めて、お母様は最初から涙を流さざるをえませんでした。普通なら自由な形で話しができるでしょうに、今は監視する人の前で、自由に話すことさえできない。そういう関係の中で、お母様にとっては、いろいろなことが瞬間的に思い浮かべられて、涙を押さえられなかったのも当然なことであると思います。

私が先生のお母様と初めてお会いしたのは、お母様が先生との面会を終えて家に帰る途中で、先生の面倒をみておられた玉というおばあさんの家ででした。韓国動乱が始まったその当時は、人々が全部疎開していて、玉おばあさんと私だけが残っていて、二人で礼拝をしていました。その時、初めてお会いしたのです。

先生のお母様は次のように話されました。もし先生が牢からお出になるならば、これからは私のそばから離れないようにするでしょう、と。先生がたびたび牢で苦しまれることを経験した、そのお母様としては、絶対にもう自分のそばから離したくない、そういう心があるのも当然なことと私は思っています。

 

先生のお母様への情について

 

先生は、面会に来てくださるお母様が泣かれることがとても気にかかりました。本当に忙しい中にあってお母様が、この田舎のおばあさんが、自分に面会するためにはるばるやって来たことを思うと今までの過去のことが連想され、また、今その母が自分のことで泣いている姿を見るときに、先生にとっても、どれほどに心が痛かったことでしょうか

しかしながら先生は、お母様が先生に対して肉的情で、「わが子がこんなに苦しんでいる」とかで涙を流すのを喜ばれませんでした。先生としては、「わが子は他の人とは違うんだ。人のために、全世界のために、そして神様のために、この牢の中でも元気でいる。これはすばらしいことだ。よく勝利していくんだよ」というお母様になってほしかったのです。そのようになってくれるお母様を願ったのでした。

そこで先生は、難しい中を訪ねて来てくださって泣いているお母様に対して、「そういう涙を見せるのならば、再びここに訪ねてこないでください」と、きっぱりお話しされたのでした。それは、お母様にとっては、ひじょうに心に痛みを感じた言葉でした。

面会の時間は限られており、いくら話したくても、その時間になると厳しく別れなければなりません。お母様としては話したいことがもっとたくさんあるのでしょうが、もう涙が先にたってしまいますと、話したいことも話せずに帰るようになります。人情のあつい先生としては、そういうお母様の後ろ姿を、お母様は今どのように考えているのだろう、どのようにしながら家に帰っているんだろうと、いつもいつもお母様に対する情念をもって眺めておられたのです。先生のお母様に対する情念は、誰よりも以上にあったのです。

食口が教会を訪ねて来て、そういうふうにして帰るときには、門の前に立って、その人の後ろ姿が見えなくなるまでじいっと見送る、そういう先生でした。来るはずの食口がまだ来ないときには、外に立って来るのを待っている、そういう先生です。そういう先生であるがゆえに、お母様が帰られたとしても、お母様に対する親孝行の心は、いつまでもいつまでも先生の心から離れるはずがないのです

 

人情の分別

 

 

私たちは人情と天情がこんがらかるときが、たくさんあります。もともと堕落しなかったならば、人情と天情というものは、人情は天情に通じ、天情はそのまま人情に通じるものでした。ところが堕落した結果として、人情と天情は一致しないものとなりました。それで私は、人情を立たせるためには、まず先に天情を結び、その次に人情を立たせるという復帰の道を行くようになったのです。

それで二千年前に来られたイエス様も、「皆様が私についてこようとするならば、皆様の親、夫婦、子供に対しての愛を切り捨てて私についてきなさい」、と教えられたのです。その事情をよくわかっていたイエス様が「地上に平和をもたらすために、わたしが来たと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むために来たのである」と表現されたのも、そこにあるのです。

イエス様は、誰よりもイエス様を愛さなければならないことを教えられました。イエス様との情というものは、天情を意味します。自分の兄弟、あるいは親子の情は、人情をあらわします。ですから「私をより愛せよ」ということは、人情よりも天情を立たせなさいということです。

この点について、私たちもはっきり確立していないならば、神の道をまっすぐに行けない時がたびたび起こるでしょう。人情を切るのは、それを最も完全な立場で、完全な人情に立たせるためです。堕落して汚れた因縁をもっている人情を私たちは分別して、そして天情につながることによって、その人情を立たせるためにあるのです。

ですから、過去の自分、堕落した自分を否定すること初めて本然の自分を立たせることができるのと同じです。宗教が自己否定ということを主張したのも、

その点であるのです。自己否定というのは、本然の自分の否定ではありません。

私もみ旨の道に入った最初の頃、すべてを分別する生活をしました。親との関係を分別し、また社会との関係も、とにかくすべてを分別する生活をしていました。本当に、親でも兄弟でもサタンの手先のように考えて、これを分別する生活をしたときもありました。先生が私たちにそのように教えられたわけではないのですけれども、私たちにはそういう心があったのです。親子の関係も社会の関係も、全部永遠に切るものだと思ったのです。

1960年以後になって、先生は私たちに、たびたび氏族復帰について教えてくださいました。そこで、今まで完全に切ってしまっていたのを、これからは復帰していかなければならない、ということは、私にとっては、ひじょうに大きな仕事でした。すべて切ってしまっていこれにまた因縁をつけるというのが、私にとってはひじょうに難しく考えられました。

今は、分離する目的、切る目的が、こういうふうに復帰していくことにあったのだ、ということを、私は、はっきりとわかってきました。分別する時代は、分別そのものに目的があるのではなく、統一するところに目的があるということを、はっきりわかったわけです。

このような私たちが神と一体化していくためには、こういう厳しい分別の時代があるということを忘れてはなりません。

 

 

健康管理

 

先生は、霊界の助けというものは、自己の限界を克服しなければありえない、ということをおっしゃいます。体の管理についても、それと同じです。神が全部助けてくれるから、無理して放ったらかしにしても体は健康になる、という考えはありません。自分が管理すれば管理することができるのに、それをしないで、全部神様がやってくれるだろう、という考えはいけません。

とにかく無理をしてしまった。そういうときには仕方がないから、それはもう神様にお任せするより仕方ないですけれども、それ以外のことは自分がやらなければいけません。自分の体を自分でテイク・ケアするのです。たとえば、ある病気にかかった人がいました。ところが彼は無理をしていました。これは、どのようにして治したらよいのでしょうか。自分で病気にかからないようにするのではなく、病気にかかるようにしておいて、病気を治してくれ、と言ったら、どうするのですか。病気にかからないようにすることは、自分がやることなのです。自分が高い所から飛びおりながら、「神様、どうぞ私がケガしないようにしてください」と言うのと同じです。

神様が全部なおしてくれる、病気にかかっても治してくれる、という考え方はよくありません。

先生は五年の刑を無事にもちこたえるために、ご自分の健康を顧みなければならなかったのでした。先生は健康管理のために、ご自分の健康管理法として、六時の起床時間を厳守しなければならないにもかかわらず、六時よりも早く起床して、寝ながら運動をなさったのです。神様が全部守ってくれるからいい、という考えではいけないのです。

 

 

 

 






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最終更新日  2023.01.06 16:22:10
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