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2023.01.11
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カテゴリ:証・証言


講話​ 先生に学ぶ6 金元弼

  1981年ファミリー7月号

 

私たちを愛してくださる先生

 

私たちは先生と一緒に、たくさんの山に登りました。誰も、先生より先に山に登ることができませんでした。

山に登っては、先生はいろいろなお話をしてくださったり、皆に歌をうたわせたりされました。人の前で全く歌をうたったことのない兄弟たちは、先生に言われて、たくさんの人の前でうたう訓練をされました。上手な人ばかりでなく、全員がうたいました。下手な人であっても、先生は、その歌の内容や、うたう人の心を大切にしてくださるのです。そして、先生の好きな歌がありますと、先生が誰よりもそれを愛してうたってくださいました。

毎日うたう人は、いつも同じ歌をうたうわけにはいかないからと思って、なんの歌をうたおうかと迷っていると、先生は、彼女はこういう歌をうたっていた、彼はこういう歌をよくうたっていた、と覚えてくださっていて、「あの歌はどうか、この歌が好い」と言ってくださるのです。兄弟の好きな歌を先生がよく覚えてくださっていて、その人以上に好んでくださるので、その兄弟は、「ああ、先生は私の愛する歌を、私が好む以上に好んでくださっている。先生は私をこのように覚えてくださっている。記憶して好んでくださっている」と、その歌一つをもって、先生に対して信頼惑をもつようになるのです。

それからまた、先生は私たちに、「あなたの顔を鏡で見てごらんなさい」とおっしゃいます。あなたの顔は上向きになった方が美しいとか、笑うときにはこうした方が美しいとか、顔つきや座り方など、いろいろ全般にわたって、人に良い感じを与えるように教えてくださいました。先生は男性にも女性にも、そういうところまで気をつけて、しかも人があまりいない所で、静かに教えてくださったのです。

皆さんは、好きな人や尊敬する人がいると、その人の好きなものを自分も好きになりますね。相手の癖さえも真似てみたいと思うでしょう。もともと人間は、神に倣うようにできているのです。ですから、神に近い人がいれば、その人のようになろうと思うのです。それは、神に近よろう、神に倣いたいという心なのです。

ですから皆さんも、メンバーに対して、メンバーを嫌になることなく、メンバーの好きなものを皆さんも好んでやってあげてください。そうすればメンバーは、あなた方に対して心を開き、信頼感をもってくれるのです。

 

先生に対する私の情の変化

 

先生にお会いしてまもない頃の私の心と、先生と一緒に南へ避難していたときの私の心について、述べたいと思います。

最初、先生にお会いしたときは、ただただ私とは全く次元の違う方だ、というふうに考えました。ちょうど、小学生が初めて学校に入ったとき、自分を教えてくださる先生に対して感じるのと同じような「次元の違い」を感じたのです。その当時、私たちは学校の先生に尊敬の念で対しました。当時の学校の先生は、本当に親が子供に対するごとくに、自分の教え子に犠牲的奉仕をもって教えてくれました。それで生徒たちには、先生の恩に感謝する謝恩感というものがあり、自分の尊敬する先生の写真をポケットの中に入れて歩くこともあったほどです。

私も幼い頃、そのように考えていたせいか、先生にお会いしたときに私は、そういう心をもったのでした。それで私は、率直に言いまして、その頃は十八歳であったにもかかわらず、先生は普通の私たちとは違って、トイレにも行かないし食事もなさらない、そういう超人間として捉えました。ですから、先生がどういうお話をなさっても、私には全部信じられたのです。

たまに家に帰る時間が遅くなって、私は先生と同じふとんで寝るときがありました。夏は暑く、そしてその当時は南京虫がたくさんいました。噛まれると、とっても痒くて腫れあがるのです。先生は全然おわかりにならないでお休みになるのですが、私は最初から南京虫に噛まれて、痒くて痒くて眠ることができません。体が痒いので掻きたいのですが、もし私が動きますと、隣の先生は眠れないだろう、そう思って戦い、いつのまにか草臥れ果てて私も寝てしまう……、といったことを覚えています。

先生にお会いしますと、ひじょうに心の中は喜ばしいのですが何も言葉が言えない、という状態でした。私には―つの悩みがありました。一人でいるときには、それが大きな問題として私を悩ませるのです。それで先生に聞いてみようと思って先生の前に行きますと、その悩みは小さな問題に感じられます。それで「聞こう」という勇気が出てきません。そして家に行って一人になると、また大きく感じられるのです。「こんなふうだったら、先生に打ち明ければよかった。今度行ったときには必ず話そう」。そして先生を訪ねると、問題は小さく感じられる。そういうことを繰り返しながら、いつのまにか私は、自分で悩みを解決していけるようになり、また、先生のいろいろなみ言を聞くことによって、そういう問題を整理していけるようになりました。

私は、先生に深刻な問題をもっていって、「これはどうですか」ということを聞いた覚えがありません。どんなに信じられないようなことであっても、先生のみ言を聞いたり、先生の行いのすべてを見ることによって、徐徐にそれがわかっていくようになったのです。

そのように私は、心情的に、いつもある距離をもって先生に対していました。けれどもそれが、避難の路程のときに全部なくなってしまいました。朝起きるときから夜寝るまで、何事も一緒に生活するようになったからです。

私は一緒に歩きながら、自分の信仰を打ち明けたことがあります。「もし、私が二千年前に生まれていたとするならば、私は、イエス様を飢え死にさせたことでしょう」と。なぜならば、私はそれまで、メシヤという者は食べなくてもひもじさを感じない方である、と信じていたからです。私は先生を通じて、二千年前のイエス様の事情と心情というものを理解することができたのです。

 

愛・勇気

 

皆さん、み言の根本は愛です。み言は、愛の表現がいろいろな形で表れているのです。ですから、み言から出発して、ずうっと辿っていくと、結局は愛につながるようになります。一つの有機体ですね。一つの木だとしたら、それは葉っぱから枝に通じ、そして幹を通じて、結局は根に通じます。枝から始めた人も根に通じるし、葉っぱにも通じるし、花にも通じるわけです。このように何事も、一つを完全に身につけるようになると、他のことにも通じるようになるのです。

皆さんには、勇気と愛は、全くつながりがないようにみえるかもしれません。しかし、愛があるがゆえに勇気が出るのです。勇気あるがゆえに愛に通じます。愛のない人に、どうして勇気が出るでしょうか。

勇気には、いろいろな形があります。自分より強い人に対抗していくのも一つの勇気だといえましょう。

水の中に溺れている人を水に飛び込んで救うのも、勇気だといえましょう。あるいは火の中に飛び込んで人を助け出して生かすのも、勇気といえるでしょう。また、人の意見と自分の意見が合わないとき、全体のことを考えて、自分の意見を退けて相手を立ててあげる、それも一つの勇気ということができるでしょう。

ところで、そういう勇気は、やはり愛なくしては出てこないのです。子供を救うのにも、その子供を愛する心なくしては、勇気は出てきません。自分の意見を否定して、人の意見を立てるのにも、そのことによってもっと大きな目的を愛するという心があってこそ、できるのです。

また、謙遜な心、それも同じです。謙遜な心があるがゆえに、勇気をもつことができます。勇気なくして謙遜であることもできません。

このように、勇気、愛というもの、また謙遜というものは別々のものではなく、源を辿っていきますと、すべて通じている世界なのです。ですから皆さんは、どのみ言でもいいですから、それを実践して身につけていってください。そうすることによってすべてに通じます。

神と人間との約束

 

約束というものは、必ず相対性、つまり主体と対象をもっています。そしてまた約束というものは、双方においてプラスになる目的を中心にしてなされます。お互いのための目的、お互いのための幸せですから、私たちはそれを「全体目的」とか「全体のために」という言葉で表現しています。そして、ある時期には全部の約束が終わるという、時間性があります。

神と人間の間にも一つの約束がありました。その約束は、神だけの幸せのためでもなく、人間だけの幸せのためでもない、言い換えれば神と人間の幸せを目的にした創造目的というものがありました。創造目的というのは創造理想の実現にありました。

ところで人間は、この神との約束を守ることができませんでした。しかしながら神は、永遠性があるがゆえにその約束を守りました。とするならば、その神の約束というものは、どうなるのでしょうか。人間との間に約束された創造理想の実現というものは、どうなるのでしょうか。それは、そのまま残るのです。神がそれを守るからこそ、この人間復帰の摂理というものがあり得るのです。もし、人間が約束を守らず、同時に神も約束を守らないという立場に立つならば、永遠に理想の実現復帰というものは、あり得ないでしょう。

ですから、神の六千年の人類復帰摂理というものは、神がいかに人間との間に立てた最初の約束を守り通したか、という歴史にもなるわけです。

 

約束に対する先生の姿勢

 

私たちが誰かと約束する場合、「二人で約束する」というふうに考えがちですが、実際はそうではありません。そこには必ず神様もいれば、サタンもいるのです。特に、先生と私たちの約束というものは、永遠なる約束です。私たちが世の中に住んでいるときだけ一緒にいましょう、という約束ではありません。

ときどき私たちは、先生との約束を破ります。神に誓った人たちや霊能者など、そのほかにも、先生との約束を忘れた人がいました。先生は、彼らが約束を破ったことをよくご存知でしたが、相変わらずその人たちのために祈り、その人との約束を守られました。たとえ、その人が約束を守らないばかりか、教会から出て反対したとしても、先生はその人との約束を守られました。

そうした場合、その人は変わってしまっても、神は他の人を立たせて、先生との約束を守らせていくのです。

ですから今まで先生が歩まれてきたこの道は、たとえ先生を信じきれずに教会から遠ざかる人がいたとしても、先生が常に約束を守られるがゆえに、新しい人がどんどん現れて、摂理が成し遂げられてきたのです。

もう一つお話ししましょう。清平という所がありますが、先生がそこにお出かけになった次の日のこと、そこから出発して本部教会に行くことになりました。その日は、たくさんの人が教会に集まることになっていました。

先生は早めに出発されたのですが、船の状態が悪く、そのうえ雨も降ってきたので、約束の刻限に間に合いそうにありませんでした。それで先生は、約束した時刻からすぐに悔い改めの祈りをする、とおっしゃいました。約束した時刻に遅れるので約束を守れない、ということに対する祈りです。

その日、先生はお着きになって、皆に話してくださいました。「こういう、公的な約束を守れないそのときには、その時間から悔い改める祈りをしなければいけない」と。そして「私は、この時刻に間に合うように、所要時間よりも前に出発していた」と。先生は目的地まで一時間かかるならば、一時間十分前には既にそこを出発していたというのです。つまり、心情的に約束を守った、ということをお話しされました。

先生ご自身としては、心情的にも外的時間的にも、約束を守っているということを証してくださったのです。






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最終更新日  2023.01.11 19:56:43
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