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カテゴリ:友岡さんのセミナー
2018年8月30日2018年8月27日 投稿者: 友岡雅弥 辺土の漁師のすごさ 今日、日蓮大聖人のご遺文を学んでたら、昔の記憶が蘇ってきました。 一時、「能」に凝ってたんです。もちろん、観賞ですよ。 ――能楽の大成者、世阿弥は、日蓮と同じく流罪されています。 日蓮は鎌倉幕府によって、世阿弥は室町幕府によって。 その世阿弥が、自己の作品のうち、ことさら重要視していたのが、「三卑賎」と呼ばれる三作品です。 その3つは、「鵜飼」「阿漕(あこぎ)」「善知鳥(うとう)」です。 「鵜飼」は、今でも続く、鵜で川魚をとる生業の人を扱った作品。ちなみに、もともと鵜飼は、被差別の人たちがやっていた生業でした。 「阿漕」は、今でも、「あこぎな稼ぎ」とか使われるように、何か商売とかで「情け容赦ない」イメージを示すものとして、言葉本来の由来は忘れ去られていますが、人々の心に刻印されています。 もともとは、三重県の海岸の名前で、この阿漕が浦というか、阿漕湾というか、まあそういう海で、伊勢神宮に捧げるべき魚を、ある意味、無断で獲った漁師の話。 「善知鳥」は、ウミスズメ科のウトウ(善知鳥)という鳥をとって生計を立てていた漁師の話。 「三卑賎」では、三人とも、地獄に堕ち、責めさいなまれているのです。 ともに、生きるために、鮎をとり、海魚をとり、鳥を追う。 その鳥などの肉は、きれいに調理され、宮廷の食事となる。 しかし、殺生の罪は、天皇や貴族ではなく、漁師・猟師に報い、地獄に落ちる。 そして、その地獄に落ちた亡霊の無念の思いを、僧侶が聴きとどけ、 という話。 獲ったものは罪があり、食べたものは罪がないのか。 さて、その僧侶なんですが、 まさに、日蓮のことなんです。
そういう理論を説くのか仏教は。 世阿弥の思考は、深く深くつきつめていきます。 そして、「安房の国小湊の僧」の登場となる。
まさに、日蓮大聖人はそのことに敏感でした。それは、大聖人が漁師の出身だったからです。当時、海の漁師、また山の猟師は、動物を殺生して、暮らしを立てているので、もっとも卑しい職業とされていました。 だから、安房の国の片海の漁師の子とか、御書に書いていてそれを読むとき、「ああ、漁師さんの子どもだな」と、今の常識で牧歌的に考えたらあかんのです。
動物を殺生して暮らしを立てる、どうしようもなく卑しいやつらというイメージなのです。 しかも、当時は今と違い、職業選択の自由なんてありません。漁師の子は、漁師なんです。 過去世に悪いことをして、今、卑しい職業について、その卑しい職業のゆえに、未来も卑しい暮らしをする、というどうしようもない悪循環です。 それが、佐渡御書にはどう説かれているか。 日蓮今生は貧窮下賤の者と生れ、旃陀羅が家より出でたり。心にこそ少し法華経を信じたる様なれども、身は人身に似て畜身なり。魚鳥を混丸して赤白二諦とせり すさまじい、宣言です。 これ、佐渡御書の「宿命論」を語るところに出てきますね。 それを、手の込んだ料理にして食べる「高貴な人々」の人生。 大聖人が、「宿業論」と「差別論」が密接にかかわっていると認識しているのが分かります。
身分の上の人たちは、自分は魚とか鳥は殺さないのに、それをきちんと調理して、ぱくぱく食べて、そして、漁師さん、猟師さんをバカにする。血塗られた存在と、差別する。 そんな社会に大聖人は住んでいたわけです。 佐渡御書の続きに、こうあります。 其の中に識神をやどす。濁水に月の映れるが如し。糞嚢に金を包めるなるべし。心は法華経を信ずる故に、梵天帝釈もなほ恐れと思はず。 すさまじい「人権宣言」です。 御書を読むときに、「今の常識」で読んだら、大聖人のすごさ、それに対する社会側の反応のすさまじさが、分からなくなります。 大聖人が見ていた地平から見たいものです。 地べたに這いつくばって、地べたからみんなを見ていたのです。 同じく地べたに這いつくばって生きていた人たちを、そして、大聖人やその地べたの人たちを見下す、御殿の中の人たちを。
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Last updated
April 25, 2019 03:17:41 AM
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