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さて、建治三年九月十一日付けの四条金吾への書簡。「崇峻天皇御書」との名前で親しまれているのですが、「崇峻天皇」についてそれほど語られることは、なかなかないので少し整理しておきましょう。 崇峻天皇は、6世紀後半に在位した、実在の天皇です。 「神国王御書」( p.1517)に 「第三十三代崇峻天皇の御宇より仏法我が朝に崇められて・第三十四代推古天皇の御宇に盛にひろまりき」とあるように、仏教が日本に伝来したころの天皇です。 ただし、仏教伝来については、いくつかの説があり、538年説と、552年説などが、今有力です。 ただし、553年説は、当時、もっとも有力だった三論宗の説では、この時から「末法」となり、また、仏教流布の舞台が、像法時代のアジア大陸から日本へと変わる(三論宗の説)ということを受けて、それに沿った形で、後付けで作られた説であるという可能性もあります。 崇峻天皇の即位は、553年あたりなので(このころの歴史は年代確定が難しい)、大聖人が、仏教伝来は崇峻天皇の時としたのは、おそらくこういうような説が当時は、流布していたのでしょう。 ちょうど、物部氏と蘇我氏の対立抗争の、不安定な時代です。この後には、いわゆる「大化の改新」という事件があり、律令制度の確立へと向かいます。「歴史的年代」を中国のように確定して記録として残して行こうという流れもあるので、それ以降ならば、年代はかなり正確に残されていきますが、なにせ、社会が不安定で、記録もきっちり残して行こうという流れもないので、とにかく、正確を期待すること自体が、難しい。 それから、記録もきっちり残して行く、といっても、ある意味、権威者によって認定された記録なので、きっちり記録されているからと言って、恣意性(都合のいい確定)が、さらに色濃くなる場合もあります。 さてさて、その前の、不安定な時代です(といっても、力による安定がほんとうに安定かという疑問がありますが)。 その混乱のなかで、崇峻天皇は、殺されます。 歴史的に「殺された天皇」は、数人推定されますが、動かせない史実として、否定できない根拠がある「殺された天皇」は、崇峻だけです。 崇峻の前、物部と蘇我の対立に、仏教伝来を巡る対立が加わります。 崇仏派、廃仏派の対立です。大臣(畿内の豪族のたばね)・蘇我氏は、仏教をもって国を統一しようとする崇仏派、大連(畿内以外の豪族のたばね)・物部氏は、それを拒絶する廃仏派。 また、畿内は、ある意味、渡来人の影響が大きかったというか、武器を初めとするさまざまな道具類は渡来人が製造技術を持っていたり、製造していたりするわけですから、影響ところではなく、「土台となった」とってもいいでしょう。
さてさて、崇峻天皇が殺害された理由ですが、なんと、大聖人は、かなり正確な記述をされています。 或時人・猪の子をまいらせたりしかば・こうがいをぬきて猪の子の眼をづぶづぶと・ささせ給いていつか・にくしと思うやつをかくせんと仰せありしかば、太子其の座にをはせしが、あらあさましや・あさましや・君は一定人にあだまれ給いなん、此の御言は身を害する剣なりとて太子多くの財を取り寄せて御前に此の言を聞きし者に御ひきで物ありしかども、有人蘇我の大臣・馬子と申せし人に語りしかば馬子我が事なりとて東漢直駒・直磐井と申す者の子をかたらひて王を害しまいらせつ
崇峻天皇にイノシシの子を献上した人がいます。イノシシの子は瓜坊といってかわいらしい。おそらく愛玩用にと献上したのでしょう。 ところが、崇峻は、あろうことか、髪に刺してあるかんざしを抜き取り、イノシシの子の目を「づぶづぶ」と刺して、「私は、嫌いなやつをこのようにしたい」と言う訳です。 これは、すさまじい。 「づぶづぶ」ですよ。 ものすごいリアルな描写ですよね。 しかも、大きく強い大人のイノシシではなく、かわいらしい瓜坊。 崇峻の、サディスティックな性格が、見事に伝わります。 日蓮大聖人の時代、「清め」「穢れ」という考え方が広まって行きます。 まだ、神道は思想として形成途中であり、確定的な教義を持つ宗教ではありませんでした。 大きな影響を成したのが、歴史的にかなりねじ曲がってきて、日本に入ってきた仏教です。 日本に入り、さらに日本で変質した仏教は、例えば「不殺生」の倫理を拡大解釈して、漁師、猟師などを、「穢れた人々」、つまり、生物を殺す悪業をなす人々としたわけです。 そして、その反対なもの、つまり「穢れなききよらかな存在」として、天皇が構想されていく。 「天皇」の概念は、神道ではなく、日本仏教が作り上げて行くわけです。
でも、生活のうえで、どうしても魚などを獲らざるをえない猟師・漁師と、その獲れた魚などを、きれいに調理された形で食す天皇と、どちらが「殺生戒」を破っているか。
そういう問題に目を背けて、けがれなき天皇像が形成されて行くのが、平安時代から鎌倉にかけてなんです。
そのなかで、亥子の目に「づぶづぶ」とかんざしを刺す崇峻。
蘇我馬子は、この「嫌いなやつをこのようにしたい」の「嫌なやつ」は自分だと思い、東漢直駒・直磐井に、崇峻を暗殺させたわけです。
「けがれなき神話的存在」の背景に横たわる血塗られた歴史。 大聖人は、それを「第一秘蔵の物語」として、秘蔵せず語るわけです。 天皇であれ、武士であれ、漁師であれ、「心の財」を積み、日々の振るまいを自省する「私」であるのか、という問いを、日蓮大聖人はされているわけです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
April 26, 2019 03:05:44 AM
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