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カテゴリ:新型コロナウイルス
第2回文学から感染症を読み解く 東洋哲学研究所研究員 山崎 達也さん
感染症を題材にした文学作品には、人間の生き方や信仰者のあるべき姿を教えるものがある。「危機の時代を生きる—創価学会学術部編」の第2回のテーマは、「文学から感染症を読み解く」。中背哲学・進学が専門で、西洋文学に詳しい東洋哲学研究所研究員の山崎達也さんの寄稿を紹介する。
他者の苦悩を受け止め共に立ち上がる 「同苦」こそ良き信仰の本質 突然のように降りかかった新型コロナウイルスの拡大に、社会は先行きが見えなくなり、不安が襲う中、人々は希望を見いだそうと必死に生きている。私たちは、この感染症の存在をどう捉え、どう立ち向かっていけばいいのか。 歴史を振り返れば、過去にも感染症の脅威はあり、多くの歴史家や文学者、哲学者らの著作の中で取り上げてきた。そうしたことから学ぶとることも必要であろう。 ◇◆◇ 例えば、古代ギリシャの哲学者プラトンは晩年、こう述べた。 「『不当な利得をむさぼること』(自分の分け前より多くをもつこと、過度)こそ、身体のなかに現れるなら『病気』と呼ばれ、季節や年月のなかに現れるなら『疫病』と呼ばれる」(森進一・池田美穂・賀来彰俊訳『プラトン全集13』岩波書店)と。 つまり、むさぼる心が「病気」の原因となり、さらに「疫病」の原因になるということである。 ウイルスや細菌が感染症の原因であることは、今日において医学の常識である。ゆえに、感染の原因をその患者個人の心の問題に帰することはできない。ただ、人類全体として見たときには、環境破壊によって野生動物のすみかが奪われ、野生動物由来のウイルスが人間社会に進出したとする説や、地球温暖化によって氷山が解けることで、そこに眠っていたウイルスの活動が始まるとする説も専門家から出ている。人間の欲望が環境破壊をもたらし、今日の感染症流行の原因となっているのだとすれば、それは、人類が地球環境の保全に真剣に取り組むべきことを告げる警鐘なのかもしれない。 ◇◆◇ そもそも「パンデミック」(世界的流行)という言葉は、「全ての人々に関わる」を意味する古代ギリシャ語「パンデーモス」に由来する。これはパンデミックが、国籍や人種、性別、年齢に関係なく、誰もが感染者となる可能性を有しており、世界中のすべての人々に関わる問題であることを示す。 一方、パンデミックによって感染した人や志望者は、数字情報として表示される。毎日更新されるこの情報に私たちは慣らされ、次第に個々の人間の死は「抽象化」されていく。そして、最初は〝感染したらどうしよう〟と緊張感を持って対応していた3密(密閉・密集・密接)の回避も、時間がたつうちに「単調」と感じるようになっていく。 ◇◆◇ こうした「抽象化」「単調」という視点は、フランスの作家アルベール・カミュの小説『ペスト』からも読み取れる(以下の引用は、宮崎嶺雄訳『ペスト』創元社)。 カミュはつづる。 「ペストというやつは、抽象と同様、単調であった」と。 —舞台は、アルジェリアにある実在の都市オラン。物語は、町中のネズミが次から次へと謎のうちに死んでいくことから始まり、やがてその死は人間にも及び、日がたつにつれて志望者も増えていく。この中で、主人公である医師リウーは一人、感染症に立ち向かう。
フランスの作家カミュ誰の胸中にも賛美すべきものが
「ペストと闘う唯一の方法は、誠実さということです」と語るリウー。それは、患者の苦痛を少しでも和らげ、その寿命を永らえようとする医師の職務を果たすことであった。自らの感染の危険をも顧みず、たとえほかの人があきらめても、全力で感染者の治療にあたるリウー。その姿に心動かされ、周囲の知人たちも協力し始める。 カトリックのパヌルー神父は、教会で人々に〝ペストは人間が生まれなからにして背負った原罪に起因する〟と説き、悔い改めて信仰に励めと奨励した。この説教は当初、人々の苦しみを抽象化する教会の権威として、やや批判的に描かれる。だが、そのパヌルーもまた、リウーの奮闘に刺激を受け、患者への貢献を始める。 やがて、物語に転機が訪れる。それはある少年の死であった。 家族から離されて隔離病棟に移され、たった一人でペストと闘う少年。その様子を描くカミュの筆致はリアリティーに満ちている。少年が断末魔の苦しみに悶絶し、悲鳴を上げて息絶えるさまは、読者の胸をも締めつけるような鮮烈な描写だ。 少年の最後をみとったリウーやパヌルーらは苦悩する。 〝どう見ても、この子に罪があるとは思えない〟—リウーの言葉に絶句したパヌルーは、この経験によって抽象的な罪を説くことをやめ、患者の苦しみをわが苦しみとして受け止め、自らの感染を辞さずに患者への貢献を続けるのである。 カミュは、パヌルーの信仰の純粋性を「理論」から「行動」へと変容させて描いてゆく。 ◇◆◇ もちろん、これは現実の物語ではないが、重要な示唆を与えてくれる。それは、より良き信仰の本質とは、他者の苦しみを、リアリティーを持って受け止め、共に苦しみ、共に乗り越えようとする強さにある、ということである。 「一切衆生の苦を受くるは悉く日蓮一人の苦なるべし」(御書758㌻)とは、日蓮大聖人の仰せである。 仏の生命とは、苦しみのない境涯のことではなく、他者の苦しみを自らの苦しみとして受け止められる境涯のことだ。 池田大作先生は、この仏界の生命の振る舞いを「同苦」という言葉で表現されている。 カミュがリウーやパヌルーの姿を通して示したかったのは、「抽象化」「単調」を乗り越えて同苦する生き方ではなかっただろうか。 私たちも〝人ごと〟になってしまいがちな、このパンデミックを捉え直し、感染者に同苦する生き方、そして医療従事者の尊い献身への共感を、この作品は喚起しているように思えてならない。 ◇◆◇
パンデミックを乗り越える力は 「人間革命」の実践に!
小説の中で、リウーは語る。 「僕が心を惹かれるのは、人間であるということだ」 人間は人間を離れて人間とはなれない。語り合い、触れ合う中で人間となる。それは、同苦にあっても同じであろう。他者の苦痛を完全に理解することはできないかもしれない。しかし、同苦しようと思うことはできる。人間だから同苦するのではない。同苦しようと思うから人間なのである。 人間には、いかなる苦境にあっても高邁な心を持ち、耐え忍ぶ賢明さがある。人間には、希望を見いだし、むしろ苦境をバネとしていく強さがある。そして何より、周囲を思い、共に支え合って乗り越えていく思いやりがある。そうした人間の持つ善性を信じ、人間の可能性を開花させてきたのが、学会の「人間革命」運動である。 池田先生と対談集『哲学ルネサンスの対話』を編んだアメリカの哲学者であるルー・マリノフ博士は、先生との語らいを終えた際、対話から学んだこととして、こう述べた。「人間を人間タラ占める条件は何か。それは、自分自身の最大の価値を開発していこうとする成長の心」です」「その人間の条件を、具体的な運動として展開しているのが、創価学会の師弟と人間革命の実践であるといえます」 人間革命とは「自己の欲望や感覚的喜びにとらわれている生命」への転換を意味する。 その実践は、人間の中に飛び込み、自分を磨くことから始まる。そこには、パンデミックに巣くう「単調」を打ち破る力がある。 そして、目の前の一人に寄り添い、同苦し、ともに立ち上がっていく作業である。ここには「抽象化」を乗り越える力がある。 また人間革命とは、あらゆる物事を〝自分事〟と捉え直し、足元から変革してゆく運動である。そうした連帯を広げていくことは、感染症の教訓を生かしながら人類を分断から共生への方向へと導き、環境保全などにも取り組んでいく力となる。ここに私は、今置かれている現状を克服する大きな可能性があると信じる。希望の源泉は、私たち一人一人の中に厳然と存在している。 最近は新型コロナウイルスの研究が進んだことで、マスクを着用するなどして感染リスクを下げられることも分かってきた。そうした知見を踏まえ、それぞれが懸命に地域の人々と関わりながら、人間革命の歴史を築いていく必要性を感じてならない。 ◇◆◇ 『ペスト』の最後、カミュはつづった。「天才のさなかで教えられること、すなわち人間のなかには軽蔑すべきものよりも賛美すべきものの方が多くあるということを」 この〝人間らしさ〟を自ら体現し、他者のなかに輝くものをたたえ、励ましていく本源的な運動こそ、人間革命である。友のため、そして地域・社会のために行動する庶民の連帯は今、世界192カ国・地域に広がり、地球を包む。 その登場からわずか10カ月で、人類の1割もの人が感染したとされる新型コロナウイルス。この未曽有のパンデミックを、後の歴史家は、世界史的転換の時代の幕開けとして位置付けるだろう。その中にあって、学会の草の根運動こそ、後世に語り継がれる歴史となるに違いない。
やまざき・たつや 1957年生まれ。創価大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学。その後、ドイツ・ポーフム大学カトリック神学部に研究留学。現在、創価大学、都留文科大学非常勤講師。博士(文学、南山大学)。専門は中世哲学・神学。創価学会学術部員。
【危機の時代を生きる】聖教新聞2020.10.21 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
October 11, 2021 06:21:34 AM
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