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June 9, 2023
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動いては集まり、語る中で人類は共感を育んできた

インタビュー㊤ 総合地球環境学研究所 所長  山極 寿一さん

 

奪われた自由

――山際所長は霊長類研究の第一人者であり、ゴリラを主たる研究対象としながら、人類の歩みを解明してこられました。新しい生活様式が求められるこのコロナ禍を、どう見つめていますか。

 

人間は社会をつくる上で、三つの自由を手にしてきたと思います。「動く自由」「集まる自由」「語る自由」です。これらを制限したのがコロナ禍でした。

ゴリラは、三つとも持っていません。歩き回る範囲は決まっているし、所属する集団は一つで、それもいったん出てしまえば、自分が元いた集団すら戻れないですから。

出も人間は、集団をいくらでも渡り歩いていけるでしょう。特に現代は、世界中のどこへでも行ける。そうしてつながり合ってきた人間が、言葉を持っているわけです。

これらの三つをセットにして、人間が手にしてきたのは「出会い」と「気付き」です。動いて、いろんな人や、海や川、森、動物、鳥、虫たちと出あい、そして集まり、対話して、新しい気付きを得てきた。この気付きが、人間の未来をつくってきたんですね。

人間には、何十万年も変わらない暮らしをしてきた時代がありました。例えば最古の石器であるオルドワン石器は、何十万年も形が変わらなかった。つまり、生活は進歩せず、同じような暮らしを続けていたわけです。それがある時から、古い文化の上に新しい文化を積み重ねて、人間は変化するようになった。それは、出会いと気付きを繰り返すことによる変化でした。

ところが、コロナ禍でそれが制約を受けた。特に、人間が手にした「食事」という文化が、対面でできなくなった自体はすごく深刻だと思います。

というのも、サルやゴリラ、あるいはチンパンジーは、食物を分配することはめったにありません。サルはそもそもやらないし、ゴリラやチンパンジーも、時々しかやらない。しかも、要求されないと食物をわけません。

出も人間は、わざわざ「さあ一緒に食べましょう」とやるわけです。現代の人々は不思議に思わないかもしれないけど、サルやゴリラからしたら、何でそんな奇妙なことをするんだと思うかもしれない。

考えてみれば、食べ物は争いの源です。それを前にして、われわれは争いをすることなく、平和な関係が前提になっている。食事の籍を囲むというのは、そういうことです。

だから私は、食事というのは人間が最初に始めた文化だと思うんです。毎日食事をするという点はサルも同じで、世仏学的なものですが、それを社会化して、皆で絆をつくる席にしたのが人間の最初の工夫なんですよ。

コロナ禍で、食事をするにもさまざまな制約を設けなくてはなりません。対面を通しての身体的なつながりをつくりづらくなってしまいました。人間は、あらゆるコミュニケーションにおいて、五感で感じることで絆をつくってきた。特に音楽がそうです。身体の同町から共感と一体感を育んできた。それを抑制するということは、社会を壊してしまう危険すらあるんです。

動いて集まって対話するという、われわれが作ってきた自由が奪われてしまったことの重みを、真剣に考えなければならないと思っています。

 

 

誤解や曖昧さを会ってもよい。

差異も個性も認め合う社会を

 

 

言葉は不完全

――コロナかでは、SNSを通してさまざまな発信がなされています。自分と近い思想や意見の人が集まるSNSは、結果的に人々を特定の世界に閉じ込め、分断が生まれるのが特徴といえます。

 

言葉というのは不完全なコミュニケーションだといえます。いくら言葉を尽くしても、自分の気持ちを伝えきれず、いらだったりする。それよりも、握手をして利抱き合ったり、あるいは一緒に歌ったり、スポーツをしたり、奉仕活動をしたりする方が、気持ちが伝わることがありますよね。

言葉は、対面でこそ意味が伝わる部分がある。同じ言葉でも、どういう声や状況が発せられているか、相手がだれかで、伝わり方が違ってきます。

にもかかわらず、言葉がどんどん「シンボル化」して、SNS上で文字が飛び交っても、相手は目の前にいないし、状況を共有できない。そういう状態で、ヘイトスピーチやフェイクニュースが押し寄せてきて、それに我々は脅かされている。こうした行き詰まりの背景には、言葉が不完全なコミュニケーションであることを、見失っている現実があると思います。

人間の知性の源泉は、脳の大きさだと多くの人は考えていると思います。しかし、200万年前に脳が大きくなりはじめ、現代人の脳の大きさである1400ccに達したのは、6040万年前。それ以降、人間の脳は大きくなっていません。

得に1万年前に農耕牧畜をはじめてからは、急速に文明を発達させたにもかかわらず、脳は大きくなっていない。なぜか。

能が大きくなったのは、仲間の数を増やしたからという仮説があります。実際に人間以外の霊長類では、脳の大きさと集団規模がぴったり対応しています。

ゴリラは1015等の集団で暮らしていますが、人間の集団も、それくらいの数であったとされています。

では、現代の1400㏄という脳の大きさに最適な集団規模がどれくらいだというと、150人くらいです。6040年前から脳が大きくなっていないということは、この最適な集団規模も大きくなっていません。ここで言う集団規模とは、定期的に触れ合ったりしながら、信頼し合える仲間の数のことです。科学技術で利便性が高まり、SVSで何百人、何千人と連絡を取り合っていたとしても、信頼できる仲間の数には入らないということが、仮説から考えられます。

そうして増えたように見える集団規模は、情報として自分の外に出されていて、インターネットのような、外部化されたデータベースの中にいる。

一方で私たちが、仲間の顔を浮かべようとすると、多くて150人くらいだったりする。この150人を、私は「社会関係資本」と捉えています。その数が、ずっと増えてこなかったということです。

そのきっかけは、人間が言葉を持ったことだと思っています。言葉は知性源泉である一方で、記憶を外出しすることにもつながるわけです。忘れてしまっても、言葉があれば思いだせるからです。さらに今は、考えることさえ外部化して、データベースやAIで行おうとしている。

だから実は、1万年前と比べて、現在の脳は10パーセントくらい縮んでいるという話もあります。このまま考えることをしなければ、もっと小さくなるかもしれない。

「シンギュラリティ―(技術的特異点)」と言われるように、AIが人間の知性を乗っ取る時代が来るといわれています。そんなことはないと言う専門家もいますが、僕はあり得ると思っています。それは、人間には適応力があり、環境に合わせてしまうからです。AIが人間の知性に追付くこと花飼っても、人間が知性を低下させてAI的になる可能性があるということです。

身体の中や頭の中にある人間の情緒が、使われないまま置き去りにされて、だんだん希薄になっている。すると人間は、情報に操られ、情報の塊になり、AIに乗っ取られてしまう。自分よりAIの方が、自分のことをよく知っているという事態になるかも知れない。

150人を確かな社会関係資本として、その上を生活をデザインし、言葉だけでなく、身体を通してつながるコミュニティーを新たに作り直す必要があると思います。

 

 

ゴリラに学ぶ

――コロナ禍をはじめ現代社会は、いくらAIを使っても、〝予測〟することのできない事態ばかりです。この道の時代に、私たちはどう立ち向かっていけばよいのでしょうか。

 

ゴリラの群れに入って暮らす中で、僕自身、何度も死にかけました。野生の世界は、何が起きるか分かりません。「行き当たりばったり」であることを予測して、どんな事態にも身構えていなければならない。

こうした経験から学んだのは、「命を失わない程度の失敗はしてもいい」ということです。常に正解を導き出す必要はないし、そもそもそんなことはできません。あいまいさを許す余裕を持つことが大切です。

今は言葉に頼りすぎてしまったせいで、皆が正解を求める。でも自然界に、100パーセントの正解はありません。

それでも、命を失うほどの失敗をしなければいいというレベルで、人間以外の動植物は存在している。それでうまく調和がとれている。そこから二つのことが言えます。

一つは、完璧な理解を相手に求める必要はないということ。人間同士、相手の心の仲間で地通せるわけがない以上、むしろ分からないものとして付き合うべきということです。

例えば人間とネコや、人間とイヌだって、全然整理が違う動物なのに、うまく付き合っている。そこには誤解もあるわけですね。誤解も含んで共存できるという前提で、説きあっているとも言える。

そしてもう一つは、あいまいなものはあいまいなままにして付き合えばいいということ。つまり論理ではなく、直感で付き合うということです。我々は、論理に重きを置きすぎていて、この人はこういう人間で、このように考えて、こういうことをするだろうと予測しようとする。あるいはAIに情報を与えて分析して、100パーセントの期待値を出そうとする。

同じ人間なんていないはずなのに、今のICT(情報通信技術)は、人間を工業製品化して、同一労働、銅市賃金に体に考える。でも自然界で同じ能力を持った動物なんていないだから、同一のことができるわけがない。

さまざまな差異を認めた上で個性がぶつかりあうから、面白いこと、新しいことが生まれるのであって、だから付き合う価値もある。社会でも大学でも、違う人間同士が刺激し合い、それぞれの能力や個性を磨き上げることで、新しい未来が開けると考えた方がいいのではないでしょうか。

 

 

新たな共生の道

――性急に答えを出そうとせず、日々の現実に忍耐強く付き合い、あいまいさを許す生き方の中にこそ、共生の道が開かれていくのではないでしょうか。

 

そう思います。西洋に端を発する科学思想は、二元論ですね。この二元論の下、人間は環境を客体化し、切り離して、都合のよいようにつくり変えてきた。そうして起こったのが現在の環境危機です。

あるいは病気に対しても、西洋では、病気の原因を突き止めて、病原菌を突き止めて、病原菌を断つための薬をつくるのが一般的です。ところが東洋では、原因が分からなくても、人間の免疫力を高めて、その病気と共存できるようになればそれでいいと捉えます。漢方が良い例ですね。つまり、あいまいなままでいい、共存すればいいという考えですね。

そもそも、人類がこれまで使ってきた薬は、ウイルスと共存するためのものが、多かったのではないかと思います。人間の遺伝子の8パーセントはウイルス由来です。人類の進化を助けてきたウイルスを、悪者にする必要はない。

植物の葉や根を使ってつくる薬がありますね。無視などが食べられない部分を、薬にしたのが人間です。自然界の作用をうまく取り込んで、身体を適応させるようにしてきたのが人間の歴史といえる。

そうして中では、病原菌を絶滅させようという発想は長い間、なかったはずです。人間は単独で生きているのではなく、バクテリアやウイルスとの共生体であると思い直す方が自然だといえます。

そもそも感染症が広範囲に広がったのは、人間が家畜を飼って、まん延する舞台ができたからです。そういった歴史をもいい地整理して、人間が地球で共生できる条件や環境を再構築しながら、新たな暮らしを組み立てる必要がある。それが、まさに今です。

言葉に頼ったコミュニケーションや、常に正解を求めようとする、これまでの〝当たり前〟を見直し、異なる人々や地球環境と共生していく道を、身体性を通したつながりの中で育んでいかなくてはなりません。その意味で、私たちは文明の大転換期に立っていると、僕は思っています。

 

やまぎは・じゅいち 1952年、東京生まれ。霊長類学者・人類学者。京都大学理学部卒。同大学院理学研究科博士号機課程単位取得退学。理学博士。1975年からニホンザルやゴリラの野外研究に従事し、類人猿の生態研究をもとに人間社会の由来を探っている。㈶日本モンキーセンター・リサーチフェロー、京都大学大学院理学研究科教授、京都大学総長(201410月~20209月)等を経て、現在、総合地球環境学研究所所長。著書に『人生で大事なことはみんなゴリラから教わった』『スマホを捨てたい子どもたち』『人類の起源、宗教の誕生』(共著)など多数。

 

 

【危機の時代を生きる】2022.2.23

 

 

インタビュー㊦ 総合地球環境研究所 所長  山極 寿一さん

 

二元論を超えて

――前回のインタビューでは、近代的な二元論の立場でウイルスを〝敵〟と見るのではなく、人類がウイルスと共生してきた歴史を見つめ直す必要性を語っていただきました。こうした視点を深めるために、大切な心構えは何でしょうか。

 

最近、西田幾多郎(18701945)の哲学を読み深めています。日本のオリジナルな哲学を打ち立てた最初の一人が西田だと思いますが、僕は、日本文化に流れる「あいだの思想」を、もう一度、復活させる必要があると思っています。

是を理解するうえで根本となるのが、西洋近代の思想は二元論だということです。コンピューターは01だけで計算する「二進法」でできていますが、今のデジタル社会も、「0か1か」の発想でつくられています。デジタルは安定しているんです。

面白いことに、静物の遺伝子、つまりDNAも、四つの塩基の組み合わせでシナリオができているという意味では、デジタルです。ところが、生物そのものは予測不能なアナログの生き物でしょう。つまり、デジタルとアナログが組み合わさっているのが、生物の世界といえます。

アナログは、時間的に連続しているから、もし間違えたら、全然違う方向へ行ってしまう不安定さが伴います。だけどそれは時間の産物であり、直すこともできるわけです。しかしデジタルは、安定している一方で、いったん変更したり、壊れたりしたら、元通りにはできない。

「あいだの思想」とは、ものごとをはっきりと区別し、分けようとする二元論に対して、分断することのできない物事の「あいだ」を認める論理のことです。

西田哲学とは違う道を模索した山内得立は、インドの竜樹(注)が説いた「テトラレンマ」という論理を独自に体系化しました。レンマというのは「直接的な把握」を指す言葉で、西洋の「理性による分別」の対極に位置付けられます。

相反する二つの選択肢の板挟みにある状態を「ジレンマ」と呼びますが、これは「ジ(二つの)」レンマという意味です。「ジ」だけだと、Aか非Aであるかの二元論。その間で板挟みになっているのが「ジレンマ」です。

テトラレンマは「四つの」レンマのことで、➀AAである②Aは非Aではない③Aでもなく非Aでもない④Aでもあるし非Aでもある、の四つです。➀か②しか認めない西洋の「排中律」の論理に対して、テトラレンマは、Aと非Aの「あいだ」を認める「溶中律」の概念であり、③と④が可能になるのです。

もともと竜樹が伝えたテトラレンマは、③の両否定が最後だったのに対して、山内は、④の両肯定が、これからの世の中を救う思想だといったのです。

(注)竜樹 150250年ごろ。インドの仏教思想家。大乗仏教の「空」の思想に基づいて実在論を批判し、以後の仏教思想・インド思想に大きな影響を与えた。

 

 

日本の良質な精神の価値を自覚し

世界の文明を転換するきっかけに

 

 

「あいだ」の思想

――二者の際を明確化して分断するのではなく、二者の「あいだ」に立ち、ありのままに包み込むのが、「レンマ」の立場であると捉えてよろしいのでしょうか。

 

その通りです。日本には、この「あいだの思想」のいろいろな例があります。

例えば「三途の川」では、「彼岸」に先祖や神様がいて、お彼岸とお盆には「此岸」に帰ってくる。此岸と彼岸は地続きです。間に架かっている橋は、彼岸と此岸のどちらにも属していないともいえるし、どちらにも属しているともいえる。

あるいは、日本家屋にあった縁側は、家の外でもあり、内でもあります。そこに客を招いて、碁や将棋をしたり、お茶を飲んだりするのが日本の習わしです。「あいだ」を許す構造が、日本の中にはいっぱいあるんですね。

西田は、こうした思想を指して「述語の論理」と言いました。英語には必ず主語がありますが、日本語にはしばしば主語がありません。分かりやすい例は、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という、川端康成の『雪国』の一節です。この主語は誰でしょうか。トンネルを抜けたのは汽車のようでもありますが、雪国だと気付くのは乗客ですね。汽車と乗客、どちらが守護でもいい。日本人はこのまま文章を読めるんですね。

こうした日本人の情緒を、西田は「形なきものの形を見、声なきものの声を聞く」という言葉で表現しました。ぼくも好きな言葉です。

西洋にはないこの地続きの世界を、爆破パラレルワールド(並行世界)と呼んでいます。そうした世界観を含んだ日本の漫画やアニメが、今は欧米社会にものすごく浸透しています。日本の「述語の文化」やあいだを許すような情緒が、だんだんと受け入れられ始めているということだと思います。

 

 

物語をつくる力

 

――人間が人間以外の霊長類と違う点について、山際所長は、「物語をつくる能力」に長けていることを挙げられています。コロナ禍や気候変動といった地球的な危機を乗り越える上で、物語はどのような役割を果たすと考えていますか。

 

人間は、世界のいろいろなものに名前を付けて、因果関係にしたり、起承転結にしたりする能力に長けているんですね。物語にすることで、過去の出来事や、現実にまだ起こっていないことさえも共有できるわけです。人類を大きく発展させた物語をつくる能力を、もう一度作り直さなければいけないと思っています。

今はSNSで、誰もが物語を発信できる時代です。フェイクであるか、真実であるかを確かめることは容易ではない。国家は「創造の共同体」だと、ベネディクト・アンダーソン(アメリカの政治学者)は言いました。かつては、新聞、テレビ、ラジオといったメディアが信頼性の高い公共財として情報を発信し、人々はその受け取った情報から、世界を解釈して物語をつくってきた。

ところが今、メディアに限らず誰もが、あらゆる物語を作って発信できてしまう。平気でうそもつけます。それが人々を不安にしているからこそ、ある意味で、我々が共有できる物語が亡くなっているともいえる。

世界が共有できる物語を作るためには、文化の多様性を認め合って、文化をつなぐことが大事だと思います。それぞれの自然環境に息づいてきた文化や在来地、伝統地を尊重しつつ、文化同誌は対立せずにつながり合うことが大切です。

2001年のユネスコ総会で、「文化的多様性に関する世界宣言」が採択されました。その第7条では、創造とは「他の複数の文化との接触により、開花するものである」とうたわれています。文化間の交流によって、イノベーションが生まれると書かれているんですね。文化の多様性の中で、人々が共有できる物語を作っていくべきです。

この物語を作る能力は、「問いを立てる能力」であるともいえる。問いの立て方がまずいと、答えは見つかりません。だから僕がいつも言っているのは、長い問いを立ててよいということです。

仲間と一緒に意見を交わしながら、面白い問い、答えが見つかる問いに行き着くというのが学問の面白さであって、それは社会でも、人生においても同じでしょう。

問いがあって答えがあるということは、その間には物語がある。それを共有できるのが、我々が手にした本来の言葉の力なんです。

 

 

人々を結ぶ宗教

――宗教の起源は「共存のための倫理」であったと山際所長は言われています。宗教が人類史において果たしてきた役割と、これからの可能性について、どのように考えていますか。

 

他者の心は読めないし、読めないからこそ付き合う必要があるのですが、そこには一定の倫理がなければいけません。第三者や、あるいは人間とは違う何者かが自分を見ているという感覚が必要なんですね。善悪を誰かが見守ってくれていると思えるから、行動を律することができる。

過剰な欲をどこかで抑制しないと、人間は暴走します。科学技術は、暴走を止めるどころか拡大しようとしているわけですね。その暴走を防ぐのが宗教の役割ではないでしょうか。(インタビュー㊤で述べた「150人」という数の信頼できる仲間も、宗教の倫理によって暴走を防ぐから、信頼できる位置にとどまっているのだといえます。

その上で、重要なのは、宗教は物語を作れるということです。物語を作り、共有することで、宗教は、150人以上を集めて、物語を共有し、皆の心を一つにしたわけです。イスラムも、仏教も、さまざまな宗教がそれをやってきた。

超越的な存在や法などの規範のもとに自分たちはいる、という物語を共有することで、宗教は、国よりも大きな「創造の共同体」をつくってきたんです。

物語を作り、共有することで人々を結ぶ宗教の役割は、いまだに変わっていないと僕は思います。ただし宗教は、内にとどまり、境界の外に広がっていきにくいという限界がある。だからこそ僕は、「あいだの思想」が重要だと思っているんです。

19世紀の終わり頃、日本の扇子やうちわがきっかけとなって、浮世絵の魅力がヨーロッパに伝わりました。日本人にとっては生活必需品だったものが、ヨーロッパの人々には、寝室の装飾品にもなったのです。

そこに描かれていた浮世絵は、西洋の絵師の常識に反していた。左右対称で煮なくてもいい。背景を描かなくてもいい。赤などの原色を使ってもいい。その新しい手法に、西洋の絵描きたちが目覚め、ゴッホやゴーギャン、マネやモネが誕生し、その画家たちに触発されて、ニーチェなどの思想家が目覚めたといわれます。日本の生活用品が触媒になって、西洋の思想を変えたわけですね。

今度は、二元論にとらわれない、Aでもあるし非Aでもあるといった「あいだの思想」が、再び世界を変えるかもしれない。僕はそれを「第2のジャポニズム」と考えています。

私たち日本人がささいなことだと思っている、生き方や考え方が触媒となって、文明を転換するきっかけとなるといえます。

それは、これまでの宗教や文芸や文化が、ずっとやってきたものの延長でもあります。そうした精神や伝統が持つ価値を、改めて自覚し、後押ししていくべきだと僕は思います。

 

 

【危機の時代を生きる】聖教新聞2022.2.24






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Last updated  June 9, 2023 02:58:05 AM
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