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February 2, 2024
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進歩・創造 挑戦・開拓 自発・能動

「人間の美質」の輝きが時代を照らす

スペインアテネ文化・学術協会1995626

21世紀文明の夜明けを―ファウストの苦悩を超えて㊤

 

 

時代背景と講演の意義

1914年に創設されたスペインの著名な文化団体であるアテネオ文化・学術会議は、95626日に池田先生に対し、世界平和への貢献を称え「顕彰の盾」を贈呈。その席上、池田先生の講演が発表された。

当時の世界は、冷戦が終結したものの、旧ユーゴ―スラビアをはじめ、民族対立や地域紛争の激化、世界各地で頻出する難民問題、悪化の一途をたどる環境問題など、地球的課題が山積していた。

講演で池田先生は、21世紀文明は大量生産・消費・廃棄といった近代の産業・科学技術文明の延長線上で考えてはならないと指摘。課題を見極め、文化の軌道修正を行うべく「自律」「共生」「陶冶」の三つの視点から仏教の英知に基づき論及した。

まず、文豪ゲーテが描いたファウストの苦悩も、「自立」を求めてついに得られぬ悲劇だったと主張。一方、仏法では外在的な規範ではなく「法」という内在的規範による「自律」を志向していると訴えた。

次に、〝自然〟と〝人間〟を相対立させてきた現代文明の基調を、「共生」へと転じゆくのが仏法の「依正不二」のダイナミズムであると論じた。

最後に、これまでの産業文明は利便や快適さを追うあまり、内面性の「陶冶」をないがしろにしてきたと強調。「陶冶」なき脆弱な内面世界と、未曽有の大殺戮を演じた20世紀の悲劇的な外面世界とは、深い次元で重なり合っていると考察し、〝人格・内面の錬磨〟――すなわち、「人間革命」の哲学の重要性を主張した。

講演を聴講した識者は、『哲学なき時代』の暗雲を払い、人間と普遍的価値に光を当てた新しい地平が開かれました」と語った。

 

 

本日は、歴史と経験を誇る、ここアテネオ文化・学術協会において、講演の機会を与えられたことは、私の最大の名誉とするところであります。ご尽力してくださったロペス・ペレス会長をはじめ、関係の諸先生方に深く感謝申し上げる者であります。

さて、二十一世紀まで、あと五年半。せかいは、まさにカオス(混沌)一色に塗りつぶされております。コミュニズム(共産主義)の崩壊により、にぎやかに開幕ベルが鳴らされたかに見えた民主の舞台も、数年を経ずして、暗転してしまい、時代は、文字どおり〝世紀末〟の暗雲に覆われております。

民族や宗教がらみの争乱はあとを絶たず、本来ならば、人間性に欠かすことのできない彩である文化や文明でさえも、対立・相克の火種になりかねません。冷戦構造の崩壊は、我々の意図と期待とは裏腹に、あたかも〝パンドラの箱〟を開け放ったかの感さえするものであります。

こうした時流に掉さしつつ、二十一世紀文明にアプローチしていくには、どのような観点が必要されるでしょうか。

目下のところ、最も多く議論されているのは、二十一世紀文明は、近代の産業文明、科学文明の延長線上に考えられてはならないということであります。大量生産・大量消費・大量廃棄といった近代の産業文明のあり方をこのまま推し進めていけば、早晩、人類社会そのものの破局を迎えてしまうことは、明らかであります。

三年前のブラジル・リオデジャネイロでの国連環境開発会議は、「持続可能な開発」という選択をしておりましたが、ともかくそれを踏み台にして、格段の英知の結集が迫られているところであります。

それと同時に、私は、仏法者の立場から、時代精神の深層、つまり、ヨーロッパ主導の近代文明のエートス(道徳的気風)ともいうべきものにスポットを当ててみることも、重要な課題ではないかと訴えたいのであります。

そこまで光を照射しなければ、容易に打開の道が見つからないほど、時代の閉塞状況は深刻であるといえないでしょうか。

こうした人類史的課題を前にしたとき、私の脳裏に鮮やか蘇ってくるのは、貴国の卓越した思想家ルイス・ディエス・ダル・コラール博士の洞察であります。コラール博士は、三十年余り前、文化使節として来日され、多くの講演などを通し、我が国に、強い印象と多大なエートスとして見いだしていたのは、なんでありましょうか。

それは、フランス革命における政治や法律といった表層の次元ではなく、「人間の尊厳に対する新たな感覚」(『ヨーロッパの略奪――現代の歴史的解明』小島威彦訳、未来社)であり、また「人間本来の力に対する想像を絶した信頼」(同前)であります。そして、「この地上における人間生存に対する有効的確な支配」(同前)なのであります。

これは、言ってみれば、かのゲーテが悲劇『ファウスト』に描ききったような、ファウスト的自我の発揚でありましょう。貪欲なまでに認識し、行動し、支配しようとする近代精神の精髄であり、ヨーロッパ近代をして世界を席巻せしめた歴史的原動力でありました。

いうまでもなく、それは近代精神、近代文明のエートスの〝光〟の部分でありますが、また、そこには、必ず、〝影〟の部分がつきまとっています。

その限界と生き詰まりは、「心根つき果てて苦難の煉獄を横切りつつある」(同前)ファウストに譬えられているとおりであります。

私がなぜこのような史観に注目するかといえば、近代文明の位置づけ、捉え方が〝反時代〟的でなく、優れて〝弁証法〟的であるからであります。

先進諸国におけるカルト集団の横行が象徴するように、世紀末の闇が深ければ深いほど、人々の目は〝反近代〟〝反時代〟的になりがちであります。

なればこそ、大切なことは、近代文明の〝光〟と〝影〟、〝正〟と〝負〟を厳しく選別し、〝光〟と〝正〟の部分を正しく継承しゆく「弁証法」的な史観ではないでしょうか。

こうした観点から熟考してみれば、我々が近代文明のエートスから、何を継承していくべきかは、明らかになるはずであります。

それは、進歩や創造、朝鮮や開拓、自発や農道などの言葉を関するにふさわしい、いつの時代にも変わらぬ人間性の普遍的な美質であります。日々新たな社会や自然に働きかけ、交流しながら、環境と同時に自分自身をも更新しゆく、人間生命のダイナミックな発現にほかなりません。

それはまた、二十一世紀文明のエートス形成にも、枢要な役割を果たしていくに違いありません。

その継承作業に当たり不可欠なことは、近代文明の〝影〟と〝負〟の部分を、どう矯め直し、軌道修正していくかであります。

私は、悠遠なる仏教の歴史に蓄積されてきた精神的遺産は、そうした二十一世紀文明のはらんでいる課題に、大きく貢献できると信じております。

そこで今回は、「自律」「共生」「陶冶」の三つの角度から、私の所見を述べさせていただきたいと思います。

近代文明の軌道修正されるべき第一の点は、「自律」ということではないでしょうか。ファウストの苦悩は、自律を求めてついに得られぬ悲劇であります。

「おのれの自我を人類の自我にまで押しひろげ、ついには人類そのものと一緒に滅びてみよう」大山定一訳、『ゲーテ全集』2所収、人文書院)と勇往邁進する、不適にして不遜なファウストは、自律を装った自らの傲慢を、結局、盲目と死をもって贖わざるを得ませんでした。

ファウストが演じたのは、正真正銘の悲劇でしたが、二十世紀に入り、貴国が誇る世界的詩人・オルテガ・イ・ガセットは、自己を律することができず右往左往している散文的状況へ、鋭い矢を放っております。

「われわれの時代はいっさいの事象を征服しながらも(中略)自分自身のありのままの豊かさのなかに自分の姿を見失ってしまったように感じている時代なのである」(『大衆の叛逆』神吉敬三訳、岩波文庫)

「戦場において百万の敵に勝つよりも、一人の自己に勝つものこそ、最上の戦勝者である」(中村芳朗『人間性の発見・涅槃経』筑摩書房)

こうした言葉は、枚挙に暇がありません。

このように、おびただしい仏説の意図するところを一言にしていえば、「自律」の勧めといえますが、それは、他律的な宗教的呪縛に決別しようとした近代文明のエートスとは、いささか異なります。

同じように自己の確立を志向しているとはいえ、ファウスト的自己とは、はっきりと一線を画した「自律の構図」ともいうべきものを、仏教では説いているからであります。それは、釈尊が特に晩年に強調していた「自帰依、法帰依」という構図であります。

釈尊の最後の説法の一つには、こうあります。

「みずからを洲とし、みずからを依りどころとして、他人を依りどころとしてはならない。法を洲とし、法を依りどころとして、他を依りどころとしてはならぬ」(増谷文雄『仏教百話』筑摩書房)

すなわち、自己を律するには、自らを依りどころとして、他人や外部の出来事に紛動されぬ不動の自己を水かねばならない。その不動の自己を築くには、独り高しとする我見や傲慢を排し、徹して法を依りどころとする――そこに、真の「自律」も可能になるというのが、「自帰依、法帰依」の構図であります。私は、この「法」が、徹頭徹尾〝内在〟的に説かれているということであります。

生命に内在しているがゆえに、「法」の働きは、ついに、人間がそれを自覚できるかどうかにかかっています。仏は〝覚者〟といって、その自覚が最高度に達した人のことであります。そして、慈覚とは、「自律」とほとんど同義語なのであります。

従って、仏という偉大な覚者にとって、最大の悩みは、迷い多き人間にこの自覚が可能なのか? 可能であったにしても、人生の荒波の中で、はたして自覚を持ち続けられるのか? という難問でした。

だからこそ、釈尊や、日蓮大聖人は、最高の宗教的自覚を得た後、その「法」を民衆に説き及ぶに際し、幾度かの逡巡を重ねているのであります。「法」の内在的自覚ということは、確かに人類史的な難問であります。

しかし、この一点を避け、「法」を外在化させてしまえば、すぐさまそれは他律的規範と化し、人類の前には、「自律」の道は、依然として閉ざされてしまうでありましょう。外在化された「法」が、多くの場合、聖職者や権力者に利用され、人間を奴隷的地位にまで貶めてしまうことは、多くの宗教的非寛容性が、たどってきた血塗られた道に明らかであります。

ゆえに、貴国の偉大な言語学者のメネンデス・ピダルが、スペイン精神史の美質を次のように描き出すとき、同じく内在的、自律的規範を志向するものとして、心からのエールを送りたいのであります。

すなわち、「欠乏に耐えることにおいて人難不抜なスペイン人は、人間をしてあらゆる逆境を超越させる知恵の規範、すなわち『堅忍し節制せよ』(sustine et abstine)を胸中に持している。その内部に本能的な特殊のストイシズム(=禁欲主義)を抱いている。つまり彼は生まれつきセネカ主義者なのである」(『スペイン精神史序説』佐々木孝訳、法政大学出版局)と。

 

 

【創造する希望池田先生の大学・学術機関公園に学ぶ】創価新報2022.8.17

 

 

 

「人間革命」の旗を高く掲げ共に前へ

21世紀文明の夜明けを―ファウストの苦悩を超えて㊦

 

第二に「共生」—共に生きる、という視点を申し上げてみたいと思います。

「悲劇」の冒頭、ファウストは、月のように独白します。

 

「あらゆるものが一個の全体を織りなしている。一つ一つが互いに生きてはたらいでいる」(大山定一訳、『ゲーテ全集』2所収、人文書院)

ここには、宇宙の森羅万象が、互いに関連し、依存し合いながら、絶妙なハーモニーを奏で、生々流転しゆく「共生」の生命感覚が脈動しております。大きく息を吸い、大自然や大宇宙と自在に交感しゆく、こうした、おおどかな生命感覚は、現代人から、はるか縁遠くなってしまいました。

いうまでもなく、現代文明の基調は、自然を人間と対立させ、人間によって支配・征服されるべき対象として捉えつづけてきたからであります。その結果、人間自身の孤立と自己疎外は、ファウスト的自我の悪魔的側面が招き寄せた帰結といってよいでしょう。

多くの識者が指摘するように、二十一世紀の地平を拓くためには、こうした自然観、右中間の軌道修正こそ急務であります。ここ数年、「共生」が未来世紀へのキー・ワードとして、にわかに脚光を浴びているゆえんも、ここにあります。

その点、仏教では、人間と、それを取り巻く人間社会や自然、宇宙などの環境と不可分なものとして捉える視点を、一貫してもってきました。

 

その一つに、「依正不二」という原理があります。

手みじかに言えば、「正報」とは我々の自己自身を、「依報」とは我々を取り巻く環境を意味しております。

そして、我々自身と環境とは、常に一体にして不二であり、互いに影響し合い、相互浸透し合いながら調和をたもっていくというのが、仏教の基本的な考えであります。

こうした知見が、ポスト・モダンの知のパラダイム(範型)として大きく注目を集めてきていることは、皆さま方、ご存じのことであります。

仏法の捉え方によれば、「人間」と「自然」が織り成すハーモニーは、決して静的なイメージではありません。

それは、創造的生命がダイナミックに脈動しゆく、活気にあふれた世界であります。そのダイナミズムは、先に近代文明の継承すべきエートスと申し上げた「進歩」や「創造」、「挑戦」や「開拓」などの能動的なエネルギーを、余すところなく接する広がりを有しております。

そうした「正法」と「依報」とのダイナミックな関係を、仏典では簡潔に「正報なくば依報なし・又正報をば依報をもつて此れをつくる」(全1140・新1550)としているのであります。

まず、前半部分の「正報なくば依報はし」でありますが、例えば、我々が死んだところで、人類は存続していきますし、極端に言えば、人類が滅亡しても、それが、宇宙の終りを意味するわけでもありません。

にもかかわらず、「依報」の存在そのものを「正報」のなかに包み込み、「正報なくば依報なし」と断ずるのは、もはや、人間と環境とが不可分であることの客観描写というよりも、宗教的確信に基づく主体的決断であります。

その決断の根拠を、仏教では「一念」と呼んでおります。

「正報なくば依報なし」とは、その「一念」の地平をば、時間と空間の限界を超えた、宇宙大の「大我」にまで拡大せよ、との促しであり、更に言えば、その決断にふさわしい生き方、大乗仏教で菩薩道と呼んでいる、「小我」を去って「大我」にのっとった生き方をも要請しているのであります、

とはいえ、主体的決断だけで終わっていたのでは、独我論や唯心論、或はファウスト的独尊にさえ陥りかねません。

そこで、仏典の後半部分では「正報をば依報をもって此れをつくる」と、最新のエコロジー(生態学)的視点を先取りしたかのような補足がなされ、「依正」の絶妙なバランスがとられているのであります。この環境への温かい眼差しによって、「正報なくば依報なし」との断固たる意志は、ほどよく融和され、人間と環境とのダイナミックに相互浸透しゆく、真の「共生」の在り方へと止揚されているのであります。

さて、皆さまは、こうした仏教の「依正不二」論が、オルテガ哲学の精髄である「私は、私の環境である。そしてもしこの環境を救わないなら、私をも救えない」(『ドン・キホーテに関する思索』A・マタイス・佐々木孝共訳、現代思潮社)との命題に、驚くほど親近しているお気づきだと思います。

「私は、私と私との環境である」という言葉は、「正報なくば依報なし」と同じように、自我の「大我」への広がりを志向していないでしょう。

「環境を救わないなら、私をも救えない」という言葉からは、「正報をば依報もつて此れをつくる」と同じような、共生へのベクトルが感じ取れないでしょうか。

従って、オルテガの「文明とは、何よりもまず、共存への意志である」(『大衆の反逆』神吉敬三訳、角川文庫)との言葉に、また、大思想家ウナムーノの「強者は、根源的に強い人は、エゴイストになることはできない。十分に力を有している人は、自らの力を他に与えるものなのだ」(「生粋主義をめぐって」佐々木孝訳、『ウナムーノ著作集1 スペインの本質』所収、法政大学出版局)との言葉に接するとき、私はそこに、大航海時代以来、数百年の時の試練を経て、貴国の精神水脈を流れ続けてきた「共生」のエートスの一端を垣間見る思いがします。

それはまた、大乗仏教の精髄である菩薩道とも、深く通底しているのであります。

 

第三に「陶冶」という点に触れてみたい。

ここにも近代文明が亡失してきた盲点があると思うからであります。

近代の産業文明は、利便や効率、快適さなどの追求を旗印に、数百年間をまっしぐらに走り抜いてきました。その結果、空前の富の蓄積がなされ、物質的な側面では、先進国の一般市民は、往昔の王侯貴族も及ばぬ生活が可能となりました。

しかし、その代償として、いわゆる産業社会のトリレンマ(三者択一の窮境)と呼ばれるもの―すなわち、➀増え続ける人口を養う経済発展②枯渇する資源・エネルギー③環境破壊の三者が、互いに規制し相矛盾し合うという複雑な連鎖構造など、多くの難題を抱え込んでいることは、周知の事実であります。

しかも、より深刻なことは、産業文明の伸展が生命力の衰弱というか、内面世界の劣化現象を引き起こしてしまっているという事実ではないでしょうか。

利便や快適さを追うあまり、困難を避け、できるだけ安きに就こうとする安易さから、「陶冶」が、二の次、三の次にされてきたのが、近代、とくに二十世紀であります。

内面性の陶冶を怠ったことへの「しっぺ返し」を、最も痛切な形で受けているのが、旧社会主義国でありましょう。

私は現在、ゴルバチョフ元ソ連大統領と、雑誌で対談を進めておりますが、氏は、急進主義の誤りというかたちで、繰り返し、そのことに触れております。

「過激主義というのは、ものごとを単純に決めつけてしまうことへの誘惑と同じく、しぶといものです。

二十世紀において、性急な決定や、すべての困難を一挙に解決できる摩訶不思議な解決法がある、という単純な思い込みのために、人々は、どれほど辛酸をなめたことでしょう」

また「〝もっとも急進的な、革命的なものが、変革と進歩をゆるぎないものにする〟という、十九世紀、二十世紀の考えは誤りです」(『二十世紀の精神の教訓』潮出版社)—と。

私も、全く同感であります。

フランス革命の動向に厳しい眼を注ぎ続けたゲーテの「内面的訓練の過程を与えずして、単に我々の精神だけを介抱するような種類のものは、ことごとく有害である」(ディエス・デル・コラール『ヨーロッパの略奪―現代の歴史的解明』小島威彦訳、未来社)との警句を、今、私は思い起こしております。

「内面的訓練の過程」—これ、すなわち、内面性の陶冶であります。

これをおろそかにし、制度の件閣のみ先行することへの危惧は、フランス革命に対しバーク(イギリスの思想家)が、アメリカ革命に対しトクヴィル(フランスの歴史家)が、ロシア革命に対しガンジーが、中国革命に対し孫文が、ニュアンスの違いこそあれ、一様に表明しているところであります。

そして現在、社会主義国に限らず、自由主義国も含め、世紀末の人類社会に横行する物質主義、拝金主義、倫理の崩壊は、彼らの危惧が、決して杞憂には終わらなかったことの証左であります。

オルテガが、徳十年以上も前に憂慮していた「慢心しきったお坊っちゃん」(前掲『大衆の反逆』)の時代とは、さながら今日のことのようであります。

 

古来、仏教では「忍辱」ということを修行の柱としてきました。

また、釈尊の臨終の言葉が、「怠ることなく修行を完成なさい」『ブッダ最後の旅』中村元訳、岩波文庫)であったように、内面の陶冶や鍛えを、第一主義的課題として重視してきております。

この点に関する日蓮大聖人の訓戒を、幾つか挙げてみましょう。

「鉄(くろがね)は炎(きたい)打てば剣となる」(全958・新1288

「闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を起こして日夜朝暮に又懷(おこた)らず磨くべし」(全384・新317)「いまだこりず候法華経は種の如く仏はうへての如く衆生は田の如くなり」(全1056・新1435

子のように、内面世界の陶冶や鍛えの勧めが、いずれも〝剣〟〝鏡〟〝田と作物〟などの具体的例に寄せて述べられている点に、留意していただきたい。

これらの農作物や手仕事を特徴づけているのは、活字の世界などと違い、結果を得るまでの過程に少しの手抜きも名許されない、つまり要領やごまかしの通用しない世界であるということであります。

例えば、田に育つ稲にしても、収穫に至るまでに、実に八十八段階ともいわれる手順を踏まなければならず、どれ一つ欠けても満足のいる結果は得られません。

名刀を鍛え上げるにしても、鏡を磨き上げる場合も、同じ道理であります。

にもかかわらず、近代文明の申し子ともいうべき「慢心しきったお坊っちゃん」たちは、この道理に背を向け、楽をしよう、易きにつこう、簡単に結果を手に入れようとするあまり、オルテガの言う「真の貴族に負わされているヘラクレス的な事業」(前掲『大衆の反逆』)などとは、縁なき衆生と化してしまった感さえあります。

その結果、旧社会主義国はもとより、〝勝利〟したはずの自由主義国家にあっても、シニシズム(冷笑主義)や拝金主義の横行する「哲学の大空の時代」を招き寄せてしまいました。

その陶冶何脆弱な内面世界など、未曽有の大殺戮を演じた二十世紀の悲劇多岐な外面世界とは、深い次元で重なり合っているように思えてなりません。

ゆえに、私どもは、人格の陶冶の異名ともいうべき「人間革命」の旗を高く掲げ、新たな人間性期の夜明けを目指し、航海を続けているのであります。

以上、私は、二十一世紀文明構築のための要件と思われるものを「自律」「共生」「陶冶」の三点に絞って申し上げてみました。それらが、煉獄のファウストの苦悩にとって、希望の曙光たりうるかどうかは、歴史の審判にゆだねる以外はないでしょう。

しかし、一歩を踏み出さずして、一歩も千歩もありません。

私は一仏法者として、試練の歴史を生きる同時代人として、諸先生方とともに、全力をあげて、この未聞の開拓作業に汗を流してまいる決意であります。

最後に、貴国の偉大な精神的遺産である『ドン・キホーテ』の一節を申し上げ、私の話を終わらせていただきます。

「遍歴の騎士は世界の隅々へ分け入れるがよい、およそこみいった迷路へ踏みいれるがよい、一歩ごとに不可能なことに敢然と立ち向かう通い、人住まぬ荒れ地の真夏の日の灼くがごとき炎熱に堪え、冬は風雪の厳しい寒さに堪えるがよい」(『セルバンデスⅡ』会田由訳、『世界古典文学全集』40所収、筑摩書房)

ご清聴、ありがとうございました。

 

 

【創造する希望池田先生の大学・学術機関講演に学ぶ】創価新報2022.9.21






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