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休みの日に母親と下北沢南口 短編映画館TOLLYWOODで「金星(きんせい)」という映画を見てきました。 自分は障碍者。助けてもらって当然 と考える全盲の男の子。(主人公) 自分は障碍者。障害は人からバカにされるもの と考える主人公が恋心を抱く軽い視覚障碍の女の子。 自分は介助者。なんでも助けて当然 と考える知人の女性。 自分は介助者。助けないのも介助 と考える女性の兄。
そんな4人が山へハイキングへ行くところから始まります。登山中、好きな子の前でバテて格好悪いところを見せたくない主人公は自分の荷物を持ってくれ、と知人の女性に頼みます。女性は主人公の言う事をなんでも聞いてやり、必要以上に助けます。 女性の兄はそれを見て「甘やかし過ぎる。あれじゃああいつのためにならない」と言います。 主人公に対して女性はずっとそう接してきていたため、主人公は障碍を持っている自分がそういう介助をしてもらうのが当たり前だと感じ、知人女性以外の人の助けも当然のごとく受け、礼も疎かにしてしまいます。頂上でトイレを手伝ってもらった登山客にも全く礼も言わずに 当然のような態度をとったため登山客はむっとします。 下山後に登山客とのトラブルが起き、雰囲気が悪くなります。向こうが詫びると「こっちは障碍者なんだぞ。そんな態度で謝られても絶対に許さない」という立場を主人公はとり、謝っても謝っても許す気配を見せません。その時に相手に「そんなに障碍は偉いのかよ。自分の非には甘くて、他人の非には厳しいんだな」とガツンと現実を感じさせる言葉をぶつけられます。 ━どこまでが介助で、どこからが甘やかしになるのか 家族にいますし、母親は毎日接しているので「甘やかし過ぎる」という言葉にはグサッと来るものがあったようです。してきた事が本人の視野を狭めて、生きにくく育ててしまっているのではないか・・・とか。 私は「思い込みに気づく心理学」という本を読んでいたこともあり、「思い込み」によっての窮屈さ、自信の持ちよう がこれも当てはまるかも、と思いました。「障碍を持っているから人の手助けがなければ無理」と思い込んでしまうから起こる主人公の行動。「健常者が助けないと障碍者は大変な目にあう」と思い込んでいるから 過剰に全て周りの事をしてしまう女性。 主人公が「ある程度は自分は出来る」と思っていたら。 女性が「手助けなくても出来ることは見守ろう」と思っていたら。 まずは思い込みをどう自分で操ることが出来るのかが難題なんですけれど。「思い込み」を「思い込み」だと一歩引いて考えることができるのか。それまでのプロセスに介助なのか甘やかしなのか という事も繰り返し関係しますし。介助なのか甘やかしなのか、線引きはないと思います。だから余計に難しい。 映画を観終わったあと、母親とは話が尽きませんでした。障碍とは、介助とは、思い込みとは、親切とは、生きていくとは・・・ 上映時間は65分と短めですが、濃縮されている気がして120分映画を見たあとのような充実感。私以外3人しかお客さんはいなかったけど、もっとたくさんの人に見てほしいな~一般1000円で観れますよ。 『人間は思い込みの動物である。思い込みこそが人間を不自由にする。あらゆる思い込みを見抜き、絶対自由でありなさい。そして自ら成るところの人間になりなさい』 ~池田晶子~
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Last updated
2011.11.21 13:06:21
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