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カテゴリ:賜物の子供・子供の賜物、育児・育自
子どもをもつ親たちの祈り会があった。
今日のテーマは「学びへの意欲」 小学校へ上がるころ、あるいは高学年に差しかかるころ、「この子は勉強をやっていけるだろうか」と不安を期待を抱く。 集まった母達への質問があった。 Q1「子供のころ、学校の勉強で何が好きだった?それは成績もよかった?」 一人一人、好きだったことやそのきっかけを話していく。たいがい成績も伴っているようだ。いま、実際にそれが活かされている人も多い。 Q2「子どもに勉強が出来るようになって欲しいと思う?」 「勉強することで、将来の選択の幅が広がる。夫が、勉強しなかったことで選択の余地がなくなってしまったから。」 「勉強しなさいとは言わない。自分が、中学校をでたら働け、といわれ続けたから。でも自分は、まだ子どもなのに働きたくないと思って高校に行った。」 「塾の手伝いをしているが、小学校4年生で足し算引き算が出来ない子がいる。親も、勉強したくなかったらしなくていいやん、と言う考え方のようだ。やる気を親がそいでしまっては子どもがかわいそう。」 「低学年で普段はほったらかしだが、やる気のないときには励ます必要を感じた。そばにじっといて見守るだけで、子供はやる気を出し、何日か経ったときにはさっさとできるようになっていて、子供も親も嬉しかった。」 一人一人の育ちや経験を元にした意見が出た。 「学校の勉強って、子どもの賜物(神様から与えられた才能)を見つけるのにとっても参考になるから、大切だよね。」ということに落ち着いた。 そこで、関根一夫牧師の「いてくれてありがとう」という本のなかから、「機能論的人間観と存在論的人間観『あなた、何ができますか』」という文章を読んだ。 機能論的人間観とは、何が出来るかでその人の存在価値を評価すること。出来る集団が出来ない集団を支配し、軽蔑し、切り捨てていく傾向がある。 存在論的人間観とは、「あなたがそこに生きているという存在そのものが尊いのだ」という考え方。生まれて間もない、何も出来ない赤ちゃんを周りの人が喜ぶというような。 小学校の上級生になる頃から、急激に親の態度が変わる、つまり、今までと違う見方で子どもを評価し始めるのです。ここに"機能論的人間観"が入り込んでくる。 子どもは困惑し抵抗するが、親はいままでと同じように愛していると錯覚しており、子どもとの心のずれが生じても対応できない・・。 存在を丸かかえで喜ぶこと、それをどういう形で表明し、どういう形で伝えることが出来るのか、これは現代人の大きな課題だろう。実はこのことこそ私達、すべての人間が求めていることのひとつなのです。 「誰かに、ありのままで愛されたい」 この想いが満たされなければ、私たちの生活に本当の安心感は育ちません。 わが子もそろそろ高学年の仲間入りだ。 勉強は出来るに越したことはないけれど、そして、子どもの得意なことを見つけ励まし伸ばす助けをすることは、とっても大切だけれど、「出来る、出来ない」だけで子どもを評価してしまう危険性を気づかされた。 そこにいたお母さんの一人が、ある人がこう言っていたと紹介してくれた。 「学歴はパンツのようなもの」 そのお母さんは「履いていないよりは履いている方がいいということかなぁ。」と感じておられた。 この言葉を聞いたときに、「パンツなら、わざわざ人に見せびらかすものでもないよね。」と、私は思った。 学歴はパンツ! この言葉、気に入っちゃった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005.04.16 10:08:07
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