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カテゴリ:心のうち
雨が降ったり、寒かったり、いつもの道が工事中だったり、共に走る人がいなかったりで、つまり面倒臭くって、しばらくジョギングしていなかった。
今日は家族がそれぞれ家に居ないという気楽さもあり、郵便局での用事ついでに遠回りをしてジョギングした。 思い立って飛び出したので、ジーンズのまま。靴も運動靴タイプとはいえ踵のないもの。ゆっくりなので、まあいいか。 走り始めは、脚も息もしんどかった。 少し走るのに慣れてきたら、走りながら何の気なしにこんなことを考えた。 しんどいのに、何で走ろうと思うんだろう、そして、走れるんだろう? 走った後の心地良さ、快感を知っているから。ランナーズ・ハイっていうのかな。 また、続ければ必ず身体が走ることに慣れ、強られる事もわかっているから。 体力がつけば、さらに長い距離を、長い時間を走ることができることがわかっているから。 わかっているってことは、そのようになると信じられるということ。 今までの経験があるから。 そうだ、信仰のレースって言い方をするけれど、同じじゃない。 パウロがこんな風に言えるのは、走り終えたらどうなるのか知っているから。 「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」使徒行伝 20章24節 「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。」コリント人への手紙第一 9章24節 「私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」テモテへの手紙第二 4章6-7節 走るのは、決して楽じゃない。 信仰の道を走り終えた後、天での大きな祝福が待っている。 ジョギングやマラソンと違うのは、いつでも初めて走る道だということ。死ぬまでずっと続くということ。 走り終えた経験はなくても、聖書に"その後どうなるか"が記されている。 走れば走るほど、信仰も強められ、さらに厳しい道を走れるようになるんだ。そして、走り終えた後の祝福も大きくなる。 信じれば、走れるよ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.03.27 21:44:06
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