|
カテゴリ:Bible
民数記1章1-34節より (Biggs,John牧師のメッセージを主観的にまとめたものです)
今日はペンテコステ(五旬節)でクリスチャンにとってはクリスマス、イースターとともに3大祝日の一つです。クリスマスはキリストの誕生を、イースターはキリストの復活を、ペンテコステはイエスが天に戻られた後、最初のクリスチャン達に聖霊が与えられたことを祝います。 聖霊は三位一体の神であり、旧約では一部の、神さまから招命のあった人だけに与えられたものでした。 主はイスラエルの民のために、非常によくしてくれていました。奴隷生活を強いられていたエジプトから脱出させ、紅海を割りエジプト軍から逃れさせ、カナンの地を約束し、荒野で水を与え、毎日天からマナを降らせました。けれど、彼らは与えられていることを当然と思い、そればかりか充分ではないと不平を言ったのです。 主はこれを聞いて怒りを燃やしました。 私たち自身はどうでしょうか? 自分は今までに主からどんな親切、思いやりをもらったでしょうか? また、そのことを感謝しているでしょうか? イスラエルの民は、毎日与えられていたマナに飽きたと言いました。エジプトで食べていた濃厚な味の肉や、刺激的な味のするニラ、タマネギ、ニンニクを食べたいと。 主の怒りは激しく燃え上がりました。 子どもが何度もわがままを言った時に、親の怒りがだんだん激しくなるのと同じです。主は天の親なのです。 主は私たちの必要なものをよく知っています。今日の日を乗り越えるために与えられているものがマナです。それは、物質的、霊的、情緒的、様々な形ので与えられます。憐れみ、癒し、励まし、持病のある人が2,3日体調がいいことかもしれません。祈りによる平安、御言葉を通しての解決かもしれません。マナは、主の祈りでも祈られるように、日ごとの糧なのです。主はそれに対して「ありがとう。」「いただきます。」の言葉を聞きたいのです。 マナは実にシンプルで素朴な味です。その味わいを見出すには、時間がかかるのです。 私たちに与えられている神からのマナを味わうにも、時間がかかります。 マナを詩篇31篇のように味わうには、イエスを味わうことから始めるのです。イエスさまはご自身を「天からのまことのパン(ヨハネ6:32-41)」と言われているからです。例えば、日曜日に神の家族と賛美したり、朝に静かに神との時間をとるのです。 モーセはこのような民を自分だけで負うことはできませんと、主に言いました。モーセは既に政令を与えられていましたが、自分の無力さを知り、へりくだって主に叫びました。主は、聖霊に満たされた他の人を与えるよと言われました。 主のことばにより70人の長老が集められましたが、そのうち2人は呼ばれたにもかかわらず行きませんでした。主が70人に神の霊を与えたときその2人にも与えられましたが、彼らはその素晴らしい贈り物をどのように他の人のために用いるか関心がありませんでした。 クリスチャンである私たちも、こんなことがないでしょうか。 聖霊のことを話すとき、自分個人にどんな益があるかに焦点を置きがちですが、聖書ではむしろ、周りにいる人を豊かにするため、お互いに重荷を負うためだと言っています。 クリスチャンライフを独りで行うのは、健全ではありません。主の家族の中で行い、キリストの体の部分である自分と体全体が、恩恵を受け合うgive and takeの関係を持つことなのです(1コリント12:1-12)。体の部分が祝福されると体全体も祝福されますが、手足は身体に繋がっていないと枯れるのです。 モーセは言いました。 「主の民が見な、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自身の霊を与えられるとよいのに。」 この言葉が、1500年後のペンテコステに成就したのです。 祈りの時を持ちましょう。 最近主がしてくださった良いこと、先週のマナの祝福を思い返し、感謝しましょう。 私の内に与えられている、素晴らしい聖霊を感謝しましょう。 そして、独りで留まるのではなく、主の家族の中でともに主を賛美し、お互いを高め合うことができるように。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.05.28 15:23:56
コメント(0) | コメントを書く
[Bible] カテゴリの最新記事
|