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2007年10月12日
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カテゴリ:四季感慨
世界遺産登録の紀伊山地の霊場と参詣道(熊野古道)とは
紀伊山地は、神話の時代から神々が鎮まる特別な地域と考えられていた。中国から伝来した「仏教」も、深い森林に覆われた紀伊山地の山々を阿弥陀仏や観音菩薩の「浄土」に見立て、仏が持つような能力を拾得するための山岳修行の舞台とした。その結果、紀伊山地には、それぞれの起源や内容を異にする「吉野・大峯」、「熊野三山」、「高野山」の三つの「山岳霊場」とそこに至る「参詣道」が生まれ、都をはじめ全国から人々の訪れる所となり、日本の宗教・文化の発展と交流に大きな影響を及ぼした。『紀伊山地の霊場と参詣道』は、三重、奈良、和歌山の三県にまたがる「紀伊山地の自然」がなければ成立しなかった「山岳霊場」と「参詣道」、及び周囲を取り巻く「文化的景観」が主役であり、日本で唯一、世界でも類を見ない資産として価値の高いものであるとして、説明されている。

かって熊野詣に訪れるために、先人たちが熊野三山(本宮・新宮・那智の熊野大社)をめざして通った古道、それが「熊野古道」です。自然林の続く苔むした古道を歩けば、いたる所で九十九王子社跡をはじめとする風情ある名所に出会うことができる。筆者も高野山から熊野へ古道に沿って、何度か通ったことがあり、ご縁を感じる古道である。そして熊野三山にもお詣りさせていただいた。その折に熊野本宮大社の歌会のことを知り、献詠させていただいた。

熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)
熊野速玉大社・熊野那智大社と合わせて熊野大社という。社殿創建は崇神天皇の時代(紀元前97~30年)と云われている。もともと社殿は大斎原に鎮座していたが、明治22年(1889)の大洪水で一部の社殿は流失し、現在の地に遷宮された。本地垂迹説から熊野権現として信仰されるようになる。延喜7年(907)宇田法皇が行幸してから歴代上皇・法皇の熊野御幸は、院政期から鎌倉中期までの190年間に100回を数え、中でも後白河法皇は34回、後鳥羽上皇は28 回行幸の記録が残る。4月13~15日の例大祭は稚児行列で知られ、1月7日の八咫烏神事は一社相伝で、牛王神符が作られる。
★ 住 所 和歌山県東牟婁郡本宮町本宮1110
★ H P http://www.town.hongu.wakayama.jp/www1/taisya/index.html
★ 御祭神 家津美御子大神(けつみのみこのおおかみ(素戔嗚尊))
★ 御神徳 家内安全/健康長寿/交通、航海、旅行安全

平成19年10月6日に、熊野本宮大社にて歌会の第20回献詠披講式が古式に則り斎行され、この度『献詠歌集~音無川~』の送付を頂いた。

後鳥羽上皇の御製がお歌の最初に掲げられている。
はるばると さかしき峰を わけ過ぎて 音無川を 今日みつるかな

後柏原天皇の御製
よる波の 音無川に 影見えて 氷をみがく 冬の夜の月

熊野本宮大社 宮司 九鬼 家隆 献詠歌
いつの世も 変わらず流る 音無の 川辺に立ちて 祈る平安

この歌集に筆者も一首献詠申し上げていた。
熊野社に 詣る身清め その昔 音無川は 徒歩で渡りし   朴雅







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最終更新日  2007年10月13日 15時56分00秒



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