中野犬屋敷
中野へ行った。日本史で中野というと、江戸時代五代将軍綱吉の悪名高き生類憐みの令を思い出す。明治新政府は、徳川幕府を倒して成立した政権である故、前政権の政策一般について否定的ないし批判的であり、それゆえ、生類憐みの令を含めて悪評の類が誇張して今日に伝わる一つの背景。幕府の犬といったり、警察を犬呼ばわりするのも、生類憐みの令の悪評と、中野の犬屋敷あとに警察学校があったことによるのではないかと勘ぐってみたくなる。しかし、徳川幕府一般に悪政の伝承は少なく、260年にわたる長期の治世が続いたことからも、かなりの合理性をもった政権であったことがうかがえよう。綱吉の将軍在位は、延宝8年(1680年)から宝永6年(1709年)。関ヶ原の戦いから80年を経て空前絶後の好景気として今に伝わる元禄(1688年から1703年)を中心とする治世は、柳沢吉保、荻原重秀などの高級官僚が台頭、木下順庵、雨森芳洲、室鳩巣などの儒学者が登用され、武断から文治へと統治のありようが大きく転換する一方、元禄赤穂事件(赤穂浪士の討ち入り)、元禄大地震といった事件、大災害が発生した時代でもあった。我々は、かつて昭和元禄と言ったりして、元禄をバブル三昧の時代だったように捉えがちであるが、徳川幕府による統治が円熟期に差し掛かる中、幕府要職への小藩、外様大名の積極登用、江戸市中での寺院建立禁止、今日の日韓関係にもつながる鬱陵島領有にかかわる竹島一件など、内政、宗教、外交各方面において、統治者の力量を示すかじ取りが行われている。徳川幕府は、一向門徒への激しい迫害、叡山焼き打ちに見られるごとく既存宗教と激しく対峙した織田信長、信長が既存駆逐に利用したカトリックに冷淡に転じた豊臣秀吉のあとを受けた政権であるが、島原の乱の対応に見られるごとく、カトリックには非寛容に徹する一方、国内諸宗派については、宗教内部の対立を利用し、或いは、分裂を画策、さらには、幕府諸政策への協力を強要ないし奨励し、支配体制の一部に組み込んでいく。信長、秀吉に比べ、高度に洗練された政治的なものを感じる。横山にあった塔頭を明暦の大火で失った本願寺は、自らの手で埋め立てた築地に1679年再建を果たす。綱吉政権は、しかして、奈良、京都にありたごとく、武力を伴った強力な宗教勢力を政権所在地近くに常駐させ、ことあるごとに政治に介入された先例をよしとはしなかった。綱吉政権下で、江戸市中への新たな寺院建立はご法度となる。多くの犠牲者、朝鮮半島残留者を出した朝鮮出兵。秀吉の死により全面撤退に方針転換する。しかし、今日本邦内での半島情勢論議に鑑みても、撤兵、領土交渉は生半可なものではなかったであろう。徳川幕府成立には朝鮮出兵善後処理の側面があると思う。その集大成ともいうべきものが100年後の竹島一件ではないかという気がしている。さて、中野と生類憐みの令の関連は、御囲=犬屋敷である。中野通りと北側の早稲田通り、西の環七に囲まれる区域。戦前は陸軍、戦後は警察大学校などがあった場所に犬屋敷はあった。当時、中野の中心は新中野=鍋屋横丁周辺であるから、その西北。犬屋敷が作られたのは1695年。建設を担当したのは津山藩である。藩主の森家は、犬屋敷完成後間もなくの1697年当主が急逝、縁者を後継にたてるが、幕政批判がたたり改易。代わりに越前松平家から、宣富(長矩)が藩主に入る。越前松平家は、家康次男の結城秀康(菩提寺は、世田谷の淡島森巌寺)を初代とする名門。わが家のご先祖さまは津山藩士だが、元来は森家でなく松平家家臣。犬屋敷にかかわったかどうかは不明。生類憐みの令というは、名を冠した法令があるわけでなく、いくつかのお触れを総称してこのように呼ぶ。それが今日まで悪法として伝わるは、本来、動物愛護令的なものが、それを金科玉条のごとく運用した者があったか、あるいは、後世誇張されて伝わったか?犬屋敷についても、はたして、それが生類憐みの令に関連したものか、あるいは、別であったものが、犬好きの綱吉に結びつけられた?中野の犬屋敷、一時は十万匹の犬を飼っていたが、綱吉死後に犬屋敷が廃止となったあと犬がどのように処分されたかは不明という。十万匹の犬とは尋常でない。食糧をあたえていた記録はあるので、中野の犬屋敷に犬を飼っていたことは、間違いあるまい。しかし、元禄8年(1695年)江戸の人口は85万人。すでに世界最大規模の都市であったとはいえ、十万匹もの犬(中野に収容されたは飼い犬は含まず、大方は野犬の類であっただろう)が市中に居たとも、考えにくい。いかに動物愛護であっても、犬10万頭は、日本の支配者のスケールからみて、異様な数字。実は、犬屋敷、野犬保護を目的としたのではなく、野犬を集めることに目的があったのではないか?犬屋敷は、中野だけにあったものではない。四谷・大久保・中野に『犬御用屋敷』が設置されたは、元禄8年(1695年)。飼い主のいない犬を収容するためといい、元禄10年(1697年)には手狭となり、四谷、大久保は閉鎖。 大久保の『犬御用屋敷』は、総面積2万3000坪、約10万匹の犬を収容したという。かつて陸軍のあった戸山ヶ原一帯。四谷犬小屋は、今の新宿駅南口一帯(JRの線路から高島屋あたり)で敷地面積2万坪。それに対し、中野の犬屋敷は敷地16万坪(一説には30万坪とも)と圧倒的。わずか二年で閉鎖するはよいが、十万もの犬を中野にどうやって移動したか?しかも、二万坪がいかに広いとは言え、中野の十六万坪とは規模が違い、収容頭数がともに十万とは、納得がいかない。中野が最終目的地で、大久保、四谷が中継地だとすれば、つじつまは合う。少なくとも大久保の場合の十万は、収容していた頭数でなく、犬屋敷が置かれた期間に中野に送った累計頭数と見るが妥当か。大久保から中野は大久保通り、四谷から中野は青梅街道で、それぞれ結ばれていて、大久保、中野に犬を集め、それを中野に送ったは地理的には成立する。ならば、なぜ中野に犬を集めたか?僕は、それは、軍事的な必要からではと思っている。相手は李氏朝鮮である。上述の竹島一件は、1692年に端を発し、1696年幕府は、関係者に竹島渡航禁止を言い渡し、それに対し朝鮮は1698年(元禄11年)礼曹参議李善溥の名をもって幕閣の決定に謝意を表し、最終決着。秀吉が死ぬとすぐ、家康は朝鮮との間に和議を講じ半島から撤退したが、これも、私たちの多くは秀吉の死をきっかけに日本が一方的に兵を引いて戦争が終わったとだけ理解していた。江戸時代中盤、鎖国のさなかに、日本海(韓国は東海の呼称を主張)の孤島が、日韓いづれに帰属しようとさしたる影響あるまいと今日の私たちは思いがちである。しかし、1690年代は、文禄慶長の役から100年。徳川幕府は、ある面、文禄慶長の役戦後処理政権である。両戦役に、日本は、それぞれ十数万の兵力を朝鮮半島に出兵。多くの犠牲を出した。日本側の犠牲者は4割というから数万人に上る。初期の朝鮮通信使が回答兼刷還使として日本から連れ帰った半島からの拉致者の人数が6,100乃至7,500人とされるころから、相当数の人々が朝鮮半島から日本へ連れされれた事実が確認できるが、日本側にも戦没者以外に半島に残留を余儀なくされた人々があった。「朝鮮軍に投降し捕えられた日本の将兵(降倭)の多くは当初すぐに処刑されていたが、降倭を利用することを目的として1591年10月に降倭を勝手に殺す事を禁じる命令が出された。以後、降倭のうち砲術や剣術などの技能を有する者は訓練都監や軍器寺に配属され、降倭からの技能習得が図られた。これにより日本の火縄銃の技術が朝鮮に伝わることとなった。また特殊技能のない降倭は北方の国境警備兵や水軍の船の漕ぎ手とされた。降倭の中には朝鮮王朝に忠誠を誓って日本軍と戦うなどして、朝鮮姓を賜り優遇されて朝鮮に定着する者もいた。戦役以後、総じて朝鮮人の間では日本に対する敵意が生まれ、平和な貿易関係を望む対馬の宗氏も朝鮮王朝に強く警戒され、日本使節の上京は禁じられ、貿易に訪れた日本人も釜山に設けられた倭館に行動を制限された。また日本人捕虜(降倭)の多くは、鉄輪をはめられ逃げ出すことも出来ない状態にされたうえで、その身分を賎民とされた」-Wikipedia壬申倭乱(文禄慶長の役)は、朝鮮半島にある根強い反日感情の源泉の一である一方、日本においても、反朝鮮感情が残ったはずである。残留邦人の多くは西国大名家中の武士であり、家族、朋輩の多くが、現地で犠牲になり、或いは、現地に残留する中での撤退は、必ずしも、日本全体の意思であったとは限らず、関ヶ原は一面、朝鮮撤退に関わる対立が生んだ戦さではないかとすら思えてくる。明治初期のいかにも唐突に思える征韓論台頭は、朝鮮出兵、かつ、西軍に属した薩長などの諸藩各々の家中にありた先祖伝来の朝鮮半島への怨念が、政権を得て一気に表に現れた部分があるやもしれぬ。事実、韓国併合の際、長州出身の初代朝鮮総督寺内正毅は「小早川、加藤、小西が世にあれば、今宵の月をいかにみるらむ」と、半島に苦戦し、その後徳川により所領を失ったかれらへの思いを歌に詠んでいる。この項続く